0007 領地 #01
「こういう、人が多いところでは用心してなきゃいけないのよ」
ジェラーノは、晴佳が手にしている果物を一粒つまむふりをしながら囁いた。
「だってここの領主は、うちのお館さまと仲が――」
「こりゃ、いつまで油を売っておるのじゃ」
いつの間にか手続きを終えて戻って来ていたらしい老婆が、やれやれという風に首を振りながらジェラーノをたしなめる。
「早うせんか。ジェラーノはラフィスの世話もあろうに」
「はぁい、ごめんなさい」
ジェラーノは晴佳に目配せをし、小さく舌を出して笑う。
「ハルも、さっさと荷を背負う準備をせんか。果物はウィーテに持たせるがよかろう」
「うぃ……誰?」
晴佳がきょろきょろと見回すと、白いローブの幼女が晴佳の目の前で両手を上げてぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「あぁ、この子がウィーテ」
そういえば名前を知らなかったと思いながら渡すと、幼女はローブのポケットに果物をしまい、ぱたぱたとジェラーノの方へ走り去る。
晴佳は荷物を背負い直していたロードを見やる。
ジェラーノが言うには、さっきは叱ったのではなく守るための言葉だったらしいが……
目が合った瞬間、ロードは驚いたような表情をした。だがまたふいっと視線を逸らす。
「準備ができ次第すぐ出発じゃ。ヘルフス村で宿を取る予定じゃからの」
レグの言葉を聞いた門番の男は、舌打ちをしてまた門の方へ引き返して行った。
* * *
門とその周辺の小さな宿場町からだいぶ離れ、人もまばらになった頃にレグが話し掛けて来た。
「さて、領主の土地に入ってからは、お前さんとジェラーノたちとも会話が通じると思うが……どうじゃ? 不便はないかの?」
晴佳は森で聞いたジェラーノの言葉を思い返す。
「どうって……最初からわかりましたけど?」
――ってか、森を出発する前からレグやロードたちとも会話をしていたじゃないか。
「ほう? お前さんは理解できていたと? ひょっとして、本当に魔道の才能があるのかのう?」
「ふん、そんなわけはなかろう。私には微塵も感じられない」
ロードが横から否定する。
「どういうことなんですか?」
ロードのやたら冷たい台詞はともかく、今もこうして会話が通じているのだ。
晴佳には、レグたちが今言っていることの方が理解できなかった。
深緑のフードが思案気に揺れた。
「ふむ、ではジェラーノに訊くとしよう。ハルの言葉が理解できるかね?」
レグに問われ、ジェラーノは歩みを緩めながらにっこりと微笑む。
「そうね、今はできる。森の中では全然意味不明だったけど」
――え?
「――だそうだ」
ロードが晴佳を見やる。
「でも、ユカリさ――じゃない、先頭の紫のローブの人も――」
「あたくしはサパーですわ、旦那さま」
「――サパーさんも、俺の話が通じてたし」
「ふむ、ではハルに訊こう。わしらの言葉は何語に聞こえるのかのう? 今わしが話しているのは、果たして何語かの?」
再三のレグの問い掛けに、ようやく晴佳ははっとする。
「そう言われると……日本語、じゃない? なんだろう、知らない発音が聞こえてる? でも意味は通じてたんだけど。そういえば、さっきの『スピオン』って言葉も、知らない言葉のはずなのに理解できたし」
「『すぴおん』、ですか?」
ジェラーノが首を傾げておうむ返しに発音する。だがそれは、さっき聞いた音とは微妙に違うように、晴佳の耳に届いた。
「あれ? さっきはちゃんと……諜報員っていう、俺が知ってる言葉で言えばスパイって意味だったんだと」
「ああ、諜報員ですね」
ジェラーノが納得したようにうなずく。
「――どうなってるんだ?」
晴佳は愕然として棒立ちになる。
「それに、この夢……なかなか覚めない。こんなにはっきりした明晰夢なのに、もういい加減、随分長いこと夢の中なのに」
「お前、これが夢だと思ってんのかぁ? ははっ、お前面白えな」
追い付いたテラーが後ろから晴佳をどついた。
「夢なら切られても痛くねえよな? ちょっと試してみるか? ここんとこ、盗賊も出ねえし獲物の一匹もいないんで、腕が鈍っちまうんじゃないかと不安なんだよなあ」
言うなり、剣に手を掛けようとする。
テラーの口元に浮かんでいる笑みさえも、剣呑さを漂わせていた。フードに隠れて見えないはずの目も、鋭く光っているに違いない。
「いや、あの……俺、夢でも痛い夢見たことあるし、まずなんで切られなきゃいけないかわかんないし――」
「テラー、何をふざけておる!」
既に二、三十歩ほど先を歩いていたレグが叫んだ。
「新入りをからかうのもいい加減にせんか! いつまでもそんな調子だと、今夜は酒抜きにするぞ!」
――え、なにそのくだらない罰。
助かった、と思うと同時に呆れながら晴佳がレグを振り向く。だがテラーは、「そりゃぁ困るな」と苦笑した。
「俺は一日の終りに酒が飲めないとなると、火を吹く勢いで暴れるからなぁ」
「はぁ……?」
どうやらさっきのは黒い女騎士なりの冗談だったらしい。随分物騒な冗談を言うやつである。
――ってか、騎士さまってのはもっとこう、人間ができてるもんじゃないのか……まさかのアル中かよ。
「さて、お遊びの時間は終りだ新人。せいぜい荷物を運んで役に立つことだな。しっかり働いてがっつり飯食ってぐっすり寝りゃあ、くだらない現実逃避を続けようって気持ちも、いつの間にか消えるってもんさ」
テラーは改めて晴佳の肩をぐい、と押した。そしてのんびりと続ける。
「そんなことより、今晩の飯のことでも考えようぜ。俺は何よりも、ここの名産だという果実酒が楽しみだ」