0044 龍血 #02
隣の天幕でも人の気配がする。コトウという青年だろう。
「あのさ、園……ソノップ。俺、やっぱトイレで他人の気配がするってのはちょっと落ち着かない」
日本人の感覚としては当然だろう。だがソノップは呆れたような声をあげた。
「何甘っちょろいこと言ってんですか。これだからゆとりは――まぁしょうがないですね……気配を消す術とかってあります?」
――お前も俺と同じ教育を受けてるだろうがっ。
晴佳は個室の中で憮然とする。
しかしソノップの方は既にこちらの世界での生活の方が長いのだ。晴佳が甘ったれてると言われてもしょうがないというのも、不承不承だが理解はしていた。
「あるにはあるけど、ハルの様子がわからなくなると、いざという時に助けられないわよ?」
レグの声は困惑気味だ。
晴佳たちの会話に、意味不明な言葉がよく出て来るのも気になるらしい。
「えっと……じゃあ逆に、俺が周囲の気配をわかりにくくなるとかってのは?」と、晴佳は妥協してみる。
「それならすぐにできるわ」
レグが答えるのとほぼ同時に、晴佳はすとんと『何もない』空間に落とされたような感覚に陥った。周囲の気配どころか、ついさっきまで聞こえていた風や樹々の葉擦れなどの物音すら聞こえない。
「え……あれ? 何も聞こえないんだけど? みんなどこに行ったん――」
晴佳は焦ったが、よく考えると自分が望んだ結果がこの空虚な感覚である、ということに思い至る。
「あの、レグ、ごめん……元に戻してもらえる?」
果たしてこの声が聞こえているのかどうかも晴佳にはわからなかったが、レグのこたえる声より先に周囲に気配と物音が戻る。
晴佳はほぅっと息をついた。
「どっちがマシか、って問われると難しいけど……このままでいいや。俺は病人なんだし、しょうがないよな」
「納得していただけたようで、なによりです」
くすくすとソノップの笑う声が聞こえた。
「ハル、何かあったらすぐ呼ぶんだぞ」
ロードはまだ心配そうな声色だった。
「ありがとう……ごめんなさい。こんなおおごとになっちゃって」
「気にするな。ハルは早く身体を治すことだ」
「それでは、見張りを頼みますよ。あぁきみ、こっちの天幕の彼は、とある辺境の出身でね。時々酷く訛りが出たり、ここいらでは使われない言葉を喋ったりするんだが、そういう場合は根気よく訊き返すかまったく気にしないことにするかのどちらかにしてくれ」
「はい、承知しました」
ソノップの説明はあんまりだと晴佳は思ったが、ここで晴佳が余所者だと言われるよりはだいぶマシなはずだった。
* * *
「よく考えたら、声だけ通すって術もあったわ」
見張りにギルドの若い者を二人つけて辞去してから、レグは思い出したようにつぶやいた。
「ああ、それいいですねぇ。ハルはきっと感謝すると思いますよ」
「でもこのままでいいって言われたわよ?」
「そりゃぁ、選択肢が極端でしたし……」と、ソノップは苦笑する。
「でもハルはあーゆーところに繊細過ぎるのよ。お風呂の件だって――」
「あぁ……それは俺も、未だに慣れない部分ではありますがね」
ソノップが困ったような表情で打ち明けると、レグは呆れたという顔を見せた。
「あなたもなの? もうこれは文化の違いとしてどうしようもないことなのかしら」
レグは肩をすくめる。
レグが知る限り、この世界で裸体を見られることを恥と思うような感覚は、あまり一般的ではない。羞恥心がないのではなく、そもそも周囲を警戒しなければならないような場所では服を脱いだりしないからだ。
裸体を見せるということは、相手をそれだけ信頼しているということでもある。
唯一の例外として、恋した相手に対しては羞恥心が増大する。それがこの世界の人間の特性なのか、それとも生まれ育つうちに培われる慣習なのか、レグにもまだわからなかった。
「ハル、おなかいたいいたいなの?」
寝ぼけた様子で、ウィーテが天幕から出て来た。
「あらやだ、起こしちゃった? あなた、まだ寝ている時間よ」と、レグは慌てて駆け寄る。
「ん~……のどかわいた」
眼をこすりながらウィーテが訴える。
レグは水差しで冷ましておいたハーブ茶をウィーテに飲ませ、また天幕に押し込んだ。
「……実はあたしもちょっと眠いんだけど、先に休ませてもらっていいかしら。あの、どうしても、ってわけじゃないんだけどね」
ウィーテを寝かしつけて出て来たレグは、目をしょぼしょぼさせている。
「どうぞ、俺らが交代で診ていますよ」と、ソノップは微笑む。
「ごめんなさいね。今日はいつもよりちょっと早起きだったし、疲れることが色々あったから……」
そう言って、レグもあくびをしながらウィーテたちの天幕へ潜って行った。
天幕の近くでは、ロード、テラー、ソノップの三人だけが残っていた。ギルドの天幕でも、交代の見張り要員以外は就寝したようだった。
タラの姿も見えない。
「お前さんは寝なくていいのか」
周囲を見回して、ロードがソノップに問い掛ける。
「俺はこう見えて結構夜型なんですよ」と、ソノップは笑う。
「夜型? 夜行性ということか?」
ロードは眉間を寄せた。
「夜行性ってのともちょっと違いますけどね。夜更かしする癖があるって意味です。ハルは違うんですね?」
「さぁなぁ……ゆうべは結構遅くまで起きていたようだが」
ロードは腕組みをする。カシャリと鎧が音を立てる。
「ふぅん……ところで、あなたがたは寝なくても?」
「俺は酒を飲まなきゃ眠れないんだよ」
テラーは半ば地べたに寝そべるようにして、果実酒の瓶を傾けていた。
「……こいつはともかく、ソノップこそ寝なくて大丈夫なのか?」
「だから俺は――」
「ゆうべは夜通し歩いていたんだろう」
ロードの視線はどこか咎めるようでもあった。ソノップは苦笑する。
「それは……」
「患者が心配なのは魔法茸屋として素晴らしい心掛けだと思うが、お前さんが倒れてしまっては元も子もない」
そう言って、ロードは顎でソノップの手元を指し示した。
「ええ……それもそうですね」
ソノップは相槌を打ちながらローブを脱ぎ、フードを中に入れて丸めた。
それから「ああそうだ。ちょっとお茶を頂いて来ますね」と言って立ち上がり、炊事場へ向かった。
「お前はどうなんだよ……顔色悪いままじゃないか」
ソノップの後ろ姿を見送ってから、テラーはぶっきらぼうに言葉を投げる。
「私も緊張したのだろうな。だが、私の回復力は知ってるだろう?」
「まぁ、そうだけどよ……そんなに調子が悪そうなことなど、最近ではなかっただろう」
テラーはフン、と鼻を鳴らす。
ロードはそんな様子のテラーに微笑み掛けた。
「お待たせしました。このハーブ茶美味しいですよね。レシピを教えていただきたいくらいです」
ソノップはにこやかに微笑みながら、水筒のような形の容器を手にしてまた腰を下ろした。
「――で、本当に寝なくていいのか」
「眠くなったら仮眠を取りますよ。大丈夫です」
「そうか。ならいいんだ」
沈黙が続く。
ソノップは時々ハーブ茶を飲み、テラーは瓶を呷る。
ロードはそんな二人を穏やかな表情で眺めていた。




