0002 迷森 #02
――うわっ!
飛びすさる勢いで晴佳は驚いた。
しかしやはり全身がっちり固定されたまま、のけぞることすらできない。
だが改めて見るとそれは、ふっくりした頬とほっそりした顎の少女の顔だった。
オレンジ色のフードを目深にかぶっていたが、左手の親指をフードの縁に掛けてひょいと持ち上げると、少女は晴佳をまじまじと見つめた。
――か、かわいい……
晴佳は一瞬、今の状況を忘れて彼女に見入る。
少女も黒目がちの大きな瞳で、観察するように晴佳を覗き込む。
いや、黒目と言っていいのだろうか。
その少女の瞳の色はミルクチョコレートのような明るい茶色だった。しかし光の加減で、透明度の高いオレンジ色にもウィスキーのような琥珀色にも見えるのだ。
もしもハチミツを固めて瞳を作ったら、こんな風になるだろうか……という、なんとも不思議な色合いだ。
驚いたようにほんの少しだけ開いている口は小さく色素が薄い、淡いピンク色。上唇はどちらかというと薄めだが下唇はぷっくりとしており、ふんわりと柔らかそうだった。
まだ全体的にあどけなさが残る風貌で、せいぜい中学生くらいの年齢にしか見えない。
ただしその顔は――いやその少女自体が、晴佳の何倍もの大きさだった。
――巨人の食人族? これ、完全に死亡フラグじゃん。
そう思った途端、晴佳の身体が勝手に震え出した。それに合わせてまた、鈴のような音が一斉に、楽し気に鳴る。厄介な植物だった。
自生しているものなのか、ひょっとしたら植物を模した罠なのかも知れない。
「ジェラーノぉ?」
下から窺うように呼び掛ける声が聞こえる。
少女はその呼び掛けにぴくりと反応した。ジェラーノというのが、この少女の名らしい。
「この子、連れて帰ってもいいかしら……」
誰に問うでもなく少女がつぶやいた台詞が、自分のことを指しているのだと気付くのに、晴佳には少し時間が要った。
――十代後半の俺を『この子』扱いとは……いや、それよりもこの有様では、かどわかされようがなます切りにされようが、この少女やその下にいるであろうアマゾネス集団のなすがままじゃないか。
だが晴佳は、ミルクチョコレート色の瞳から目が離せないでいた。
少女の方は、迷っているのか落ち着かない様子でもじもじとしたり、フードの端を引っ張ってみたり、晴佳の後方に視線を向けたりしている。
――いや、でもいくら夢とはいえ、ここまでリアルな肌感覚では、うっかり勘違いして死んでしまうかも。ならばせめて苦しまないようにひと思いにやってくれないかな……
「心配しなくてもよろしいのに。可愛がって差し上げましてよ?」
くすくすと艶っぽい含み笑いと共に、少女とは違う誰かが耳元で囁いた。
突然のことで驚いたのと、耳元で囁かれたくすぐったさに、晴佳はまたびくびくと震える。それに合わせてまた鈴の音が響く。
「ロード、切って差し上げて」
耳元の声がそう囁いた途端、紅蓮の炎が晴佳の目の前に踊り出る。
と、同時に、無数の薄ガラスを一度に叩き割ったような騒音が響き渡る。非常に硬質な植物だったのだろうか。だがそれは切られた時の植物たちの断末魔にも思えるような、悲痛な響きでもあった。
拘束が解かれ、晴佳は空中に放り出される。一瞬の浮遊感、その直後に下方への加速を全身で感じ取った。胃袋が一歩遅れて浮き上がる。
――――っ!
恐怖も度を超すと声にならないものらしい。
「うわーーっ!」と叫んだつもりだったが、ひゅっと短く吸った息の音しか出なかった。
あとはただ、落下。落下。落下。
――もう駄目だ……!
晴佳は地面に激突する瞬間を想像して固く目を閉じる。脚に力が入らない。背中を恐怖が這い上がって来る。
あのまま身動き取れなかったのと、このまま叩きつけられるのと、どちらがマシな死に方だろう――究極の選択だった。だがその選択も今は効かないのだ。
……が、いつまで経っても予想するような衝撃が起きなかった。
だが確かに落下している感覚はある。
――そう、風が下から強く吹くような。
「んんっ?」
意を決し、そっと片眼を開けてみると、確かに下からの風圧を感じる。しかし眼下に見える巨木の根元付近はなかなか近付かない。
遠近感がおかしくなるくらいの巨大樹だったのか? と晴佳は一瞬思ったが、さっきまで聞こえていた地上の声は、せいぜい建物の二階と戸外程度の距離しか感じられなかった。一体これはどういう状態なのだろうか。
「意外に度胸が据わっているのね。あなた、どちらからいらしたの?」
またすぐ耳元で声がして思わず振り向く。今度は首が動いた。
と、晴佳の視界に飛び込んで来たのは、アメジスト色のマント――の前が風ではだけてそこから覗く、透き通るような白いきめ細かい肌。
――うわこれやば……ってか柔らかそ……でかいな。いや、そのでかいじゃなく。いや、確かにでかいんだけど。
何がでかいのかはさておき、それよりもやはり身体全体がでかいのだ。晴佳はその白い肌から目が離せない。いやむしろ、目が離れない。
「あなた男なのね。残念なこと」
含み笑いの声は、落下しているというのにあまりにものんびりと聞こえる。
残念、とはどういう意味だろう。
どぎまぎしながら視線を上げると、風にたなびく紫紺の髪をまとわりつかせた、透明感のある首元が見えた。
更に上には、つんと細い顎に妖艶さを漂わせるぽってりとした紅い唇。口元の左下には控え目なホクロがあった。
そしてすっと通った鼻筋と、微笑んでいるようにも少し眠たそうにも見える深いアメジスト色の瞳。
その表情に見憶えがあり、晴佳は思わず呼び掛ける。
「え、ユカリさんっ?」
女性の髪と瞳の色を一般的な日本人の色合いに修正すると、晴佳の近所にいる知人に瓜二つになった。ホクロの位置まで一緒である。
きょとんとしている相手の顔をまじまじみつめながら、これはやはり夢なのだろうと晴佳は考える。
――だって、さっきはまったく声が出なかったのに、今は声が出せる。
夢だから、さっきは自分の意思通りに動けなかったのだろう。だが夢だと意識して自覚を得たから、今は声も出せるのだろう――そう解釈した。
これだけはっきりした明晰夢は見たことがなかったが、なかなか落下しないことと、知人が出て来ることなども、夢にありがちな現象だ。
近所のユカリさんは、晴佳が小さい頃から憧れていたお姉さんだった。
思春期ならばそういった女性に、性的な意味でも憧れるのが当然であり、そのせいでこんな夢を見たのかも知れない――いや、『かも知れない』じゃなくて多分きっとそうなんだ。
――ってゆうか、ほんとに夢ならこーんなことしてもいんじゃね?
と、晴佳は光の速さで自分を納得させ、ユカリの胸元に手を伸ばそうとする。
「不埒なっ!」
だが直後に叱咤の声が響いた。と同時に、全身に激しい衝撃が走る。
……そして晴佳は完全に意識喪失した。