神の篩
いつからだろうか。
アタシが生まれた時には、すでにこういう世界になっていた。
――“神の篩”。
アタシ達はそう呼んでいるけれど、政府や科学者は断固としてそれを認めようとしない。先例のない異常現象であると、異変の解明に、一般人には到底想像もできないような大金をつぎ込んでいる。当然、社会は衰退の道を足早に進んで――いや、もう殆どが機能しなくなっていた。
国の首都である東京は、昔は疲れるほど賑やかな都市であったと聞く。けれどそれも今となっては、冷たいコンクリートの塊が立ち並ぶのみ。人口の減少がつくり出した荒廃の二文字は、いつしか人間を追い出し、更に荒廃を生み出す連鎖を繰り返していた。
色を忘れ、ただただ広がり続く……。アタシの知っている世界は、どこまでも灰色だった。
不可視の吐息が、白くその姿を主張する。
けれどそれよりもずっと確かな白が、天から落ちてはコンクリートを濡らしていた。
何年も何年も、途絶えることなく降り続ける――雪。
一体どのような循環をしているのかは分からないが、雪は積もることを知らず、地面を薄く覆うだけ。まるで、その景色の中に閉じ込められてしまったかのように。
そしてこの柔らかな白こそが、“神の篩”そのものなのだ。
科学者が認めない超常現象の正体、それは、人を殺す雪。
原因は不明。雪の何が害になるのかも、不明。だから“神の篩”と呼ばれている。
――ガッ、ザザッ。
耳に直接響くラジオのノイズ。片耳だけつけたイヤホンに指をあて、アタシは、地上の音を吸い込んでしまう鉛の空を見上げた。ラジオの充電はすでに三分の一。あと少しで、アタシは情報からも切り離されて、完全に独りになる。
“篩”にかけられて死んでいった家族の顔を思い出して、またひとつ、大きく息を吐いた。
雪だけではない。雪が降るこの大気でさえも、人の味方はしないのだ。
国という形だけでも守ろうと、政府は一部の国民に、雪と大気から身を守る防護服を配布したらしい。本当かどうかなんて、アタシが知る筈もないけれど。
――ザ……ザザ、ザッ。
また、耳元でノイズ。
――ザザザッ……によりますと、ザッ。……の生存者は確認できず。ザーーッザまたひとつ、国が減りまザザザァアッ。
音が酷く荒れて、断片的にしか聞き取れなかったが、どこかの国の人口がゼロになったらしい。こうして日毎に大量の人間が死に、国が消えていく。無差別、言ってしまえば公平に。
バサバサッと羽音のした方に目をやると、鴉が一羽、カアと鳴いた。どこかで犬の遠吠えも聞こえる。人間以外の動物は、この通り死なない。宗教団体は、人間の傲慢が神の怒りに触れたのだと言うが、アタシはそうは思わなかった。神は、単に増えすぎた種族を減らしているだけで、人間の傲慢ごとき小さいものなど、歯牙にもかけないに違いない。まして彼らが人間を見守っているなど、幻想だ。
頬にあたっては溶ける雪。人の気配など、どこにも無い。だからアタシは立ち止まった。視線を逸らした一瞬に、目の前に現れた人影に対して。
肩口までの真珠色の髪を雪に晒して、女か男か判別のつかない中性的な顔は、アタシと同じ無表情。前髪から覗く双眸は、何故か虹色に輝いていた。
「アンタ、もうじき死んじゃうよ」
見るからに育ちの良さそうな雰囲気だったから、アタシは防護服のことを仄めかした。
すると真珠の髪は、ゆっくりと横に揺れる。
「縁は死にません」
「そっか、じゃあアンタは神様だ」
「愚も死んでいないでしょう」
「そうだね、アタシは死んでない。今の所」
「では、愚も神でありましょう」
『グ』というのはアタシのことなのだろう。
「神はアタシじゃない、アンタだよ」
心の深い深い場所が、目の前の人物が神であると訴えてきた。
「愚は、この雪をどう思いますか」
「神が、地球のバランスを保とうとしているんじゃない?」
「では、なぜ不均衡だと思うのです」
「さぁ……アタシがそう感じたから」
「愚は、この世界を不均衡だと思うのですか」
「そうだね。でも何が歪んでバランスが悪くなったのかは、全然分からないけど」
歪みと歪みが繋がって円をつくり、根本にある解れを誰も見つけることができなくなっている。それでも何となく、この世界は不均衡なのだと全身が感じ取っている。
ふわり、ふわり。灰色の景色に雪が降る。
静寂に気に入られたこの世界で。
――ザーザザーッ。
ひとつ、またひとつ、確実に消えていく。
寒さに噛まれた身体の末端は、いつの間にか感覚を失っていた。
「縁もそう思います。だから――」
膝に、コンクリートとの衝撃。それから順に、肘、肩、頬。ああ、倒れたんだと気付いたのは、五秒あと。
鉛色でも良かった。アタシは、空を見たくて上半身を必死に動かし、仰向けになる。
「だから、縁はリセットを選択したのです」
けれど残念なことに、アタシの両目は何も映してはくれなかった。
眼前に広がった暗闇に、一点の、白。
きっと、雪だ。
「あっは!」
溢れ出た笑い声。アタシの耳は、もう殆ど音を拾ってはくれない。
――ガガッ……ザザアッ。
鼓膜を震わす“神の声”がある。
――ザッ……ザザ……生存反応無し、またひザザザッ……えました。
それが、アタシの聞いた、最期の音だった。