一:闖入者あらわるある日の午後
霧島暦が十五歳になったその日は、彼女にとって強烈な一日となった。
暦の通う学校は、幼稚園から大学まで一貫した全寮制である。進級試験はあるものの、外の高校を目指すための受験勉強というものとは縁がなかった。そして全寮制ということもあって、家族とのつながりも薄い生活を送っていた。ただ夏と冬の休みには、父親がよく学校へ足を運んできてくれただけである。
そしてその日は暦の誕生日だった。誕生日になると、父親から電子バースデーカードが贈られてくる。学校に入学してからというものの、毎年受け取るその電子カードを、暦はすべて保存していた。
誕生日の前日は進級式だった。中等部を卒業して高等部の教室棟に移る。学生寮の部屋はそのままだ。幼稚園からの付き合いである同級生と、高校になってからもずっと同じ部屋で過ごすことになる。
進級式を無事に終えて数日後、暦は気分が高揚して、意味もなく外へ出かけたくなった。式が終わって二日はまだ春の休みが残っている。門限は設けられているが、マンモス校のこの学校にもきちんと外出の許可は出ている。
「あら、暦さん。今日はおでかけ?」
その付き合いであるルームメイトのレアが話しかけてきた。レアはソファでゆったりくつろいでいる。
「うん。ちょっと買い物。お菓子とか足りなくなっちゃって」
「あら、そう。お気をつけて」
「何か買ってきてほしい物、ある?」
「んー……そうねえ、いつもの茶葉をお願いできるかしら? あとで代金は払うから、レシートをお忘れなく」
「了解」
暦はそう言って部屋を出る。手には国民全支給の電子端末と、部屋の鍵、そして読みかけの文庫本。生活の殆どが電子化された今の時代、紙媒体の本を手に取ることは多々珍しくなった。図書館や学校といった場所ではまだまだ健在の紙の本であるが、実生活でそれらを取り入れている人間は、少なくとも暦の世代では珍しがられている。
新しい高校の制服をためしにと思って着て見たのは正解だったと暦は確信した。足取りが軽く、美しく磨かれた地面を駆ける修学靴からは心地良い音が響く。
学校から歩いて十分程度の雑貨屋が目的地だ。レアのお気に入りの茶葉はそこで売っている。茶菓子や文房具などの生活必需品も買っていた。
その地域最大の都市として名を馳せるこの街に並ぶビルや店舗はいずれも無駄のないすっきりした形をしている。最低限の装飾と看板だけである程度の集客が見込めるうえ、世界各地からもこの街目的で観光に訪れる旅人も少なくない。
自動車は半自動運転が実現し、事故防止のブレーキ機能に限らず飲酒した運転手にハンドルを握らせないよう認証装置が組み込まれた。買い物で紙幣や硬貨を持ち歩くことはもう稀で、支払いのやり取りは電子端末で行える。駅改札も同様。
書籍や映像などはほぼデータ化され、実物としてのそれらはむしろ珍しい物になりつつある。
磨かれたガラスは鏡の代わりにもなり、思わず暦はショーウィンドウのガラスの前でくるっと回ってみる。セーラー服のスカートが翻り、襟がはためいてリボンが跳ねる。腰まで届く枯色の髪が続いて踊る。口元が緩むのを抑え込むが、胸の高鳴りを止めることはできない。
雑貨屋で必要の物を買った暦は、そのまま真っ直ぐ学校を目指す。休みはあと二日ある。その休みを利用して、今度はレアも誘ってもう少し遠い場所へ出かけよう。その前に帰ったら紅茶と菓子をちびちびつまみながら、課題の答え合わせをしよう。それが終わったら、ダウンロードした新作ゲームを開くのもいいかもしれない。
そんな風に想像しながら帰路につく。これから自分に待っている最高の楽しみを心待ちにしながら、早歩きで真っ直ぐと、進んでいく。
そんな暦を裏切る様に現れたのは――
「霧島暦さんですね?」
何だか物騒な、黒服の集団だった。
名を呼ばれたからといって、足を止めるべきではなかったかもしれない。暦は目の前に立ちはだかる正体不明の大人に、さっきまでの弾む気持ちを掻き消された。
「……?」
無骨な背広の男二人と、彼らに守られるようにして細身の男が奥に一人。その男は背広二人よりは華奢だが、暦にとっては充分大きな体をしていた。優男風のその男が自分を呼んだのだ。暦には何となくわかった。
背広たちの威圧感に押され、暦は一歩後ずさる。学校の門がすぐそこに見える。早く済ませて門をくぐらなければ。
「……そうですが、どちら様ですか?」
怪訝そうな表情の暦が優男を軽くにらむ。女子高育ちの暦には、異性との付き合いがまったくない。ましてや護衛をつけるような立場のものなど言わずもがなである。
「お探ししておりました。ひとまず、私のビルへご案内します」
「すみませんが人違いじゃありませんか? 私、あなたを知らないです」
「これは失礼。あなたは私をご存じない。ですが、私はあなたのお父上と関わりがあるのです」
父、という単語に、暦は少し反応する。学校へ入ってから疎遠になった父と、この男の関係はどういったものなのか。少なくとも、彼女が考えるような健全な付き合いではないだろう。
「追って詳細はお話しますので、さあ」
優男の護衛二人が暦に近付いてくる。今までの浮き浮きとした感情は恐怖に塗り潰される。暦は一歩近づかれるたびに、一歩下がった。彼らの手の届く場所へ迂闊に寄っては危険だと、本能が告げている。
「何もしませんよ」
(嘘をつけ嘘を)
優男はいたって穏やかに笑んでいる。こちらの警戒を解こうと努力しているのだろうが、皮肉なことに余計暦を不安がらせるだけだ。
茶葉と菓子を詰めた紙袋をぐっと抱きしめ、暦は端末で防犯ブザーのアプリを起動をもくろんだ。気づかれないように、焦らずゆっくりと、右手をお出かけ用の鞄に忍び込ませる。
音で相手の意表をつき、その隙に逃げる。このまま真っ直ぐ学校へ走るとなると、相手方に突っ込む形になる。そして背広二人に取り押さえられるのは想像に難くない。とりあえず街中へ逃げて人ごみに紛れ、なるべく人目のつく場所を選んで回り道で学校へ戻る。そう頭の中でプランを作成した。
どうしてここまで警戒するんだろうか。右手が端末に触れた、父親の仕事仲間かもしれない、背広の護衛二人は優男が想像以上の身分であるためにやむをえず連れているだけかもしれない、考え過ぎかもしれない……。ゆっくりと、防犯アプリのボタンを指で押す。迷いは暦の中にぐるぐると混ざり込む。
ただこの優男と連れ二人に近づいてはならない、という恐怖だけが、暦を駆り立てるのだ。
「暦さん? さあ……」
あとはアプリの安全装置を外すだけだ。今だ! と決めて安全装置解除と映ったスライド画面に指を奔らせようとした――時、
「失礼」
もう一人の、闖入者が現れた。
「あなたは、」
優男の表情が驚愕に揺れていた。
暦の数歩後ろに立っていた男は、暦を真っ直ぐ見つめていた。
ぼさぼさの黒髪は適当に結っているせいであちこちほつれている。春だと言うのに漆黒の薄手のコートに群青のマフラーを巻いて、あろうことか茶色の手袋で指先まで覆う徹底ぶりである。
格好はもちろん、暦を惹きつけたのは、澄んだ赤色の瞳だった。
年は二十後半あたりだろうか、目元にうっすら陰りがうかがえる。相当の苦労を背負っていたに違いない。
「失礼、ミナミ社長。彼女の身柄は私が責任を持って預かるよう、ウチの社長に言いつけられているので」
「ほう? それは霧島社長のことを言っているのですか? 彼は現在、どこにいるかもわからないのに」
「私は嘘をつかない」
赤目の男は有無を言わさず、だが自然な流れで暦の腕を掴む。そこに強引さはなかった。
「わっ?」
「こちらへ、車を用意してある」
「ちょ、ちょっと待って……! 私、あなたも知らない」
「それはそうだ。だが私はカナメに君を任されているのでね」
赤目の男の言葉に、暦は瞳を揺るがせた。要、とは暦の父の名だ。
「ルブラン殿……まずは私が先に声をかけたのだ。君の用事はあとにしてもらおう」
優男の声に怒気がわずかにこもる。本性を現し始めた。
背広男二人が大股でルブランと呼ばれた男に近づいた。ぬっと手が男に伸ばされる。赤目の男は暦から一度手を離し、後ろへとさり気なく下がらせた。
その手中にはまるかと思いきや、男は最低限の動作でそれらを擦り抜けた。
偶然かわされたか? と疑った背広たちはもう一度手をのばす。だが結局同じ結果を繰り返すだけだった。
軽い身のこなしで背広の手を男はかわしていく。
なかなかつかまらない赤目の男に苛ついたか、優男は怒り交じりに背広たちへ命じる。
「ルブランを潰せ」
背広二人はそれを行動でもって従おうとする。自分よりも背の高い男に臆することなく、赤目は一撃ももらわない。
「こちらへ」
そう言って暦の腕を掴む。暦は足を踏ん張って連れていかれるのに抗おうとした。暦にしてみれば、乱入してきたこの男も背広二人を従えている優男と大した差はないのだ。誘拐されないとも限らない。とにかく学校へ帰りたい。
(あっ、防犯アプリ……)
今さら気づいて端末を鞄から取り出す考えに至った。が、片腕を男に掴まれているせいで思惑は大きく外れる。うまく取り出せないから起動もできない。
「ちょっと……! あなたも何なの?」
「説明はあとでする。今は私を信用して欲しい」
「できるか! とにかく私は学校に帰りたいんだって」
「すべてが片づけば望み通りにする。いいから来い」
「いった……!」
男の口調は一貫して落ち着いているが、わずかに焦りが生じている。強く腕を掴まれて一瞬暦が怯んだ。
その怯みを見逃されるわけがなく、男はこれを好機と見抜いてそのまま暦を強く引いていく。後方からは複数の足音が近づいてくる。
「逃がすな!」
優男の怒号が聞こえた。嫌でも捕まえたいらしい。
「しつこいな」
男はあきれたように言う。一秒だけ立ち止まって、早口で何かを呟いた。暦には早すぎて聞き取れず、外国の言葉か何かだと思い込んでいた。
男は後方を振り向いて、左手をすっと前にかざす。
暦の常識では信じられないような光景だった。
男の左手に、オレンジ色に輝く光が巻きついている。近くで見ていると目が痛い。眩しさに暦は目をそむけた。火花が散っているあたりあれは電気のたぐいだろうか。だとしたら、それは男の手を守るようにしてどうして動いているんだろう?
雷は男の手を離れ、迫ってきた背広二人の顔に直撃する。ばしんっ! と強く弾かれたように、背広たちは上半身のバランスを崩した。そしてそのまま後ろへばったり倒れる。
「な、なにそれ……!?」
「説明は後だ」
男はそれ以上暦に反論を許さない。踵を返してさっさと大股で進んでいく。
黒塗りの車のドアを開けた男は、暦を助手席へ投げ込んだ。
「うわっ」
逃げる暇もなくドアは閉ざされる。ご丁寧にロックも怠らない。
男が運転席へと乗り込み、さっさと車を動かした。そのまま車道を走り、背広二人と彼らを従えていた優男を置き去りにしていく。
暦はバックミラーをそっと見上げる。悔しそうにこちらを睨んでいる優男が、映っていた。