【銀の都2】
二○五五年、二月十四日、十二時、ちょうど。
体内に【MANA】と呼ばれるナノアプリを有する人類へ、アンケートが実施された。それは、一定数の年齢を超えるヒトが必要か、そうでないか、という内容だった。
結果として。ヒトが導きだした解答は、実に七割以上の、人間は不要。という回答だった。
【MANA】は正しく処置を実行した。
その日。四十歳を超える大人たちは〝削除〟された。年齢に満たない人々は、体内のナノアプリが〝更新〟された。
上下区別のない、共有意識野を獲得したわたし達は、基本的に他人を理解する。ナノアプリによって構成された領域のなかで、あらゆるプロフィールから、バイオメンタルまで。いま相手がどのような感情を抱いているか、どういう気持ちか、ということが自分と同じように判別がつく。
【UPDATER】は、みんな等しく生きている。
だけど、わたし達(あるいは私)に、最近わからないことができた。
それは、なんとなく、不安。
もしかすると、なんらかの例外が発生するのではないかという、予感。
あまり良くないかもと。私の中にある共有意識は告げていた。
「ねぇ、先生」
「なんだ日坂。用がないなら帰れ」
私は今日もその人を見つめている。
職員室。冬の一日。気温は十度に満たない教場で。型のふるい永久ストーブが、しゅーっと音を立てるすぐ側で。私の先生は一人で居残っていた。どれだけ見つめても、共有化グリッド枠内にデータは表示されない。
「用件なら、ちゃんとあります」
「言ってみろ」
彼はいつまでも消えない。【NO_BODY】と呼ばれる、旧い人間だ。
「一体なにをなさっているのか、おききしたいのです」
「読書だ」
「読書。知識を、その古代物の内容から記憶転写しているのですか?」
「難しい言葉を使うな。只の暇つぶしだ」
つまらなそうに言って退け、はらりと、紙片を直接、指でめくる。
物体の内側に活字された文字列。目で追っていく。対象となる『本』と呼ばれる媒体は厚く、きっと目や腰が疲れるだろうな。先生、歳だし。とか思った。
世界を決定するアンケート。すべての解答で【NO】を選んだ人たちは、実に全体の二パーセントに留まったらしい。
そのヒトたちは、体内を巡る【MANA】の更新を受けることは出来なかった。
半永久的に生きられる代わり、【Good_night】と呼ばれる薬を服用すれば消えてゆくことが叶う。先生のように、不器用に、しぶとく生きているのは稀だ。
「ねぇ、先生」
「なんだ日坂。用がないなら帰れ」
職員室。今日もやっぱり、先生の側には旧い永久ストーブが置いてある。しゅんしゅん音を立てながら、なんと有害な一酸化炭素を排出している。そして相変わらず、持ち運びに手間のかかりそうな『本』を読んでいた。
「用件なら、ちゃんとあります」
「言ってみろ」
私は「はい」と返事をして、机の上のカップを指差した。
「その、泥のような色合いの飲み物はなんですか。先生は正気ですか?」
「失礼なやつだな。これは、コーヒーというんだ」
「コーヒー?」
私は【MANA】の共有層にアクセスした。【UPDATER】なら、誰もが閲覧できるアーカイブより〝コーヒー〟と呼ばれる単語を逆引きし、驚愕の事実を得た。
「先生! それはカフェインが多量に含まれた、有害物質と呼べる飲み物ですっ!」
「違うぞ日坂。コーヒーはな、美味いんだ」
「美味かったらなんだと言うんですっ! やっぱり先生は正気ではないのですね!」
「美味いものは身体に良い。あと、ヒトを指差して、正気ではないとか言うな」
言って先生は平然と、カフェインを煽った。私は眩暈がした。
「今すぐその飲み物を、毒を捨ててください! 捨てなさい! 捨てて!」
「コーヒーを毒と言うか。まぁ、気にするな。どうせ体内の【MANA】が綺麗に浄化してくれる。なにも問題はない」
「ありますっ、私の目前で、泥よりも不快なものを飲んで見せ、私のメンタルは大きく損なわれました!」
「知ったことか。というか、不快なら見なければいいだろうに」
「いいえっ! これは明確なアレなんです!」
「どれだよ」
「えぇと……」
以前、それっぽい単語を共有層でみつけた気がする。みつけた。
「セクシャルハラスメントですっ!」
「は?」
「略してセクハラですっ!」
「なんだと。コーヒーを飲んだだけでセクハラになるのか。世も末だな」
先生は読みかけの本を閉じる。
「というかだな。日坂、おまえ本当なんでここにいるんだ。帰れよ」
「帰りません」
「だったら、なにか用でもあるのか?」
「ありますとも!」
椅子に座ったまま、両腕を組んで言いきる。
「わたしは、先生の観察を自らの課題と化しているのですっ!」
「すまん。意味がわからない」
先生は渋い顔をした。それからさらに一口コーヒーを飲もうとしたので、「セクハラですっ、訴えますよっ!」と脅した。
「あのな……。とりあえず、コーヒーがセクハラの対象になるかどうか、自分で飲んで確かめてみろ」
「先生! 会話が成り立っていませんっ!」
「主におまえが原因だよ」
あと、それ、飲みかけ、です。
間接キスはセクハラです。たぶん。
※
コーヒーは、苦い。
「【MANA】で管理される以前のヒトは、どうしてこんなものを好んでいたのか、理解できませんっ」
「渋い顔をして飲むぐらいなら、素直に砂糖かミルクを入れておけ」
「結構です」
「不味いものは、身体に毒だぞ」
先生は、あくまで平然と言いきった。
「元々、これは著しく健康に害をなす、毒ですから」
「そうでもないぞ。深夜などに適切量を含めば、作業効率があがる」
「その反動で、翌日は疲労効果をはじめ、頭痛などの症状が現れ、最悪な結果が返るのでしょうね」
「いちいちうるさいな」
先生が眉をしかめる。わたしはちょっと、楽しい、気がする。
「先生の屁理屈に付き合うと、こうなるのが自然です。それと今度、また本を貸して欲しいのですが」
「本が読みたければ、図書館にでも行ってこい」
「街はずれにある、例の建物ですか」
「そうだ。あそこには書痴の知り合いが生きている。腐るほど本があるぞ」
「それなりに距離があるので面倒です」
「なに言ってんだ。おまえらに距離なんてたいした意味はないだろう。近場にいる【AUTO_BODY】へ、意識を上書きすればいいんだからな」
「そうですけど。先生はできないじゃないですか」
「あぁ。俺には自分の意識をどうこうできないからな、って関係ないだろ。俺のことは」
確かに、そうなんですけど。
「興味はあります。先生はどうやって、図書館までアクセスしているのですか」
「車だよ。高速に乗って、片道数時間をかけて移動してる」
「先生、車なんて持ってるんですね」
「俺はおまえたちと違って、不便にできてるんでな」
「だったら……」
「だったら、なんだ」
「なんでしょう?」
「俺が知るか」
得体の知れない〝なにか〟が、私に、その言葉を口にするのを止めさせる。
不安。――築き上げてきたもの? 崩れるような気がする?
予感。――見ることのできない先生の意識。見るのが怖い? 見たくない?
私の解答。
「連れていってください」
距離感。現実の私たちは、限りなく近くにいる。
しゅんしゅん、永久ストーブが息を次ぐ空間のなか、二人、砂糖も、ミルクも入ってない、苦いブラックコーヒーを飲んでいる。有害なカフェインがそうさせるのか、私はすこし熱っぽく、動機がやや激しい。興奮、してる?
「連れて行くって、おまえを、図書館へ?」
「はい」
「バカ言え」
「今度の週末にでも、お願いします」
「おまえ、ヒトの話を聞かんやつだな」
「いいから。『本』のある場所に、私を連れてって。――連れてけ」
放課後。時刻は六時。実体化された領域の回廊を歩いている時だった。
「姉ちゃん」と、私を呼び止める声がした。『共有化』されたアプリを用いて確認する。実在の伴われない、仮想認証クラスのアクセスが、ひとつ。
「どうしたの、ヒロ?」
「いやべつに。なにか用がある、ってわけでもないんだけど」
双子の弟。弘明は二年前から、ぐんと背が伸びた。今も、上から私を見下ろしているのが、ちょっと生意気だなと思う。
「姉ちゃん、それ、主人格だろ」
「そうよ。複製、共有不可の〝わたし〟よ」
「……姉ちゃん、最近、なんか手際悪くねぇ。帰りとか遅いし」
「えぇ、なんだかね、なんとなく、面白いような気がするの」
「なんとなく。なんとなく。姉ちゃんって、昔からそういうとこ、あったよな」
「えぇ、あったわよ」
弟に向かって、見上げ微笑むと、反対にすねた顔をして、目を逸らされた。
「でもさ、俺もなんとなく、好ましくないんだよね」
「ヒロは先生のこと、キライなのね」
私が言うと、弟は驚いた顔をする。ぱく、と口を半開きにさせてから、
「姉ちゃん、そんな断定した否定形使って平気なのか。ストレスは?」
「ふふ。最近、毒を日常的に接種してるから、これぐらいなんでもないわ」
「毒? なんのことだよ」
「ふふふ。貴方、コーヒーって知ってるかしら」
「コーヒー? ……おいっ! これ、旧世界のカフェイン飲料じゃねぇかよ!?」
「そうよ。有害なのよ」
「バっカじゃねぇの! なにを好き好んでこんなもんを摂取してやがんだよ!」
「ふふふふふ。子供には、分からない味ってことよ。さ、どいて」
私は弟を押しのけて、今日のところは帰路についた。
実体を伴う移動は手間だけど。夕暮れの中を自転車に乗って移動するのは、なんとなく、気分がよろしくなるのだった。
私たちに理解できないことは、基本ない。
すべての知識において、それが現時点で明確になっているならば、共有化された領域に有限的量子接続を行えば、設問の解答を拾ってくることができる。
ただ、それが高度で複雑なものになればなるほど、該当する単語や、公式についての索引(旧世界では〝前知識・前提条件〟などと呼ばれる)をインストールしている必要がある。
【UPDATER】の中には、繰りかえされる情報集積と、新たな〝革新〟を求め、学者や研究者と呼ばれていた人々と同様、知識の探究へ没頭するヒトも少なくない。だけど私は、これまでどんな知識にも興味が惹かれず、結局は、学園の単位認定が許される必須教養のみをインストールし、無難に過ごしてきた。
だから、私の知識量は、他のわたし達に比べて水準が低い、と言える。
それは、なんとなく悪いことなのだろうか、と思ってた。
「日坂は他の連中に比べて、成績が悪いな」
「えっ」
思っているとある日、ずばっと言われた。永久ストーブが、しゅんしゅん、鳴っている。
私は屈辱に顔を赤らめる。先生はなんというか、デリカシーがない。欠片もない。
「どの科目も面白いまでに平均的なんだよな。他の連中はなにかしら、興味があることに特化してるというか、一芸に秀でているんだが」
「つまり、私が無能だと言いたいのですね?」
「逆に言えば、珍しいんじゃないか?」
「まったく嬉しくありませんっ」
「はは、悪かった」
驚く。先生が笑うのを、初めて見た。
「おまえ達は、俺のような年寄りとは比べるまでもなく、圧倒的に頭が良い。天才だよ」
突然、言う。
「興味がある対象ならば、次から次へ、いくらでも知識を蓄えていける。共有領域を用いて常にディスカッションを行い、本来ならば人間の脳髄に入りきらない情報でさえも、共有野を用いて〝外部に保存〟して〝参照〟することが可能だ。しかし『更新前』の俺は、そのどちらも不可能でな。順序を立てた道筋が無ければ、解説すらままならない」
笑う。どこか遠くを見て。囁くように。
「それでもまぁ、なんとかな。不都合や不便さは多々あるが、無理じゃない」
「なにが無理ではないんでしょうか」
問いかけると、先生は言った。
「頭の悪い人間はな。忘れることができるんだ。都合のいいことも、悪いことも、大切だったことも、なにもかも。すべてひと括りにして、忘れることができる」
だから、と続ける。
「無理じゃないわけだ。残念なことに、生きていける」
くつくつ、笑う。
たぶん、おそらく、きっと。
「忘れることができるから。忘れられないことが、あるわけですね」
それが、このヒトを生かしてる。わたし達ではなく、私でもなく。
もうどこにも存在しない、共有されない、このヒトだけの〝誰か〟がいるのだ。
「つまらない嘘をつかないでください」
「どうした、いきなり」
「今日は失礼します」
頭を下げて部屋を出た。
この感情は。名をつけると、屈辱が近いんだろうなって、理解する。
そうだよ。だって。
頭とか、顔とか、手足とか、やたら熱っぽいもの。
だからもう。絶対に、この光景を忘れてはいけないぞと。そう、決めた。
決めたから。だから私はこうして。
先生と、一緒にいる? = 理由になってない。
先生と、一緒にいたい = 文法上は、間違いではない。
心臓 = ドキドキする。
夜の八時。私は自室のベッドに転がって『本』を読んでいた。どうにも、旧世界の活字を追いかけ、反復していると、すぐに眠たくなってしまう。
先生のように、椅子にきちんと座り、カフェインたっぷりの熱いコーヒーを飲みながら取り組むのが正しい道理かもしれない。けど、
「ふあ……」
どうにもこうにも。こういうスタイルで『読書』をするのを、私は好んだ。泳ぐように両足を軽くパタつかせ、ベッドのサイドボードに乗せた【水】で喉を潤す。
とても、だらしない気がしないでもない。そしてそもそも、こうして無駄に時間をつぶしてるのは、
「ヒロ、はやくお風呂でてよねぇ」
順番を待っているから。で、
【<personal access> Call you </personal access>】
いきなり旧型の、普段は認知することのない【タグ】が飛んできた。
続いで、連続式の【音】も聞こえてきた。私は、すこしの緊張を覚えながら、共有意識を起動させる。検索をかけた。
――〝デンワ〟の呼び出し音。
【ppppp,ppppp,】
特定の〝周波数〟を用いて、遠距離にいる相手との会話を目的とした機器。
その際に鳴る音声を〝着信〟と呼び、対象からのアクセスがあったことを示す。
しかし現在、ナノアプリで意識を共有化された【UPDATER】には不要となった代物、アンケート以来、現在では世界的に生産が中止されたが、極一部にてナノアプリを応用した物が作られ配布されている。主な利用者は【NO_BODY】で、
「えぇいっ! ひとまず概略を把握したから、よしっ! オッケー! オールグリーンっ!」
【ppppp,ppppp,】
引き続きマニュアル操作を確認する。
「結構、種類あるんだなぁ」
三秒もかけて、とりあえず一通り、意識の内側にダウンロードを終える。
五度目のコールの前に、回線を繋ぐ。えぇと、テンプレートテンプレート。
「えー、もしもし。たいへんお待たせいたしました。こちら、日坂家の長女でございます。どちら様でしょうか、ご用件をどうぞー」
『俺だ。夜分遅くにすまんな』
「先生っ!?」
がばっ、と条件反射的に、起きあがってしまう。
「あ、あのっ、え、なんで!」
『少し、伝えたいことがあってな』
伝えたい事。
ひゅっと、一つ息を呑んだ。顔が赤くなるのを感じた。なんでだろう。
「な、なんでしょう……」
『実はだな』
ベッドから降りる。部屋の床を見ながら、固唾を飲んで。あと何故か、指先で髪を整えたりしていると。コン、コン、と扉をノックする音がして。
「姉ちゃん。風呂でたぞー」
かなり最悪っぽいタイミングで、弟が言った。
『今、時間マズかったか』
「いいえっ!」
わたしは一時アクセス領域から離脱する。
現実のバカ弟を気持ち小声で怒鳴りつけた。
「ヒロっ、ちょっと黙っててよねっ」
「はぁ? どしたの、姉ちゃん、なんか変なタグ張り付いて……」
「い・い・か・らっ!」
「うぐっ!?」
不平、不満、焦り、いろいろなマイナス感情。
弟の意識性に向け、全力で遮断。=枕を全力で顔面へ投擲。
気持ち、切り替えて。
「それでっ、先生っ、私に伝えたいことってなんでしょうかっ!」
『今度の週末、図書館へ行かないか』
「えっ」
『確か前にも言ったが、書庫を管理する俺の知人は、書痴もとい、本の虫でな。そいつとさっき電話で――この通信のことだな――おまえの話をしたら、是非、ウチに連れて来て欲しいということだった』
「そ、そうでしたかっ」
『あぁ。おまえのように、紙媒体の本を嗜みたがる【UPDATER】は珍しいからな。おそらく、会って話でもしてみたいのだろう』
「あの、私が、紙媒体の本を好んで読むのは、というかむしろ」
『どうかしたのか?』
「……いいえ、なんでもありません。ところでその方も、先生と同じ【NO_BODY】なんですね?」
『そうだ。で、予定のほうは目途つくか?』
「大丈夫です」
『よし、それなら現地で集合するか』
「学園ですね」
『いや、図書館の方だ。俺は車で行くしかないが、日坂はアクセスポイントが分かれば、自動操作可能な【AUTO_BODY】を用いて、遠距離で移動できるのだろう。だから――』
「いいえ、私も、車で行きます」
『ん?』
「先生の車に、乗せてってもらいます」
『バカ言え、そんな面倒なことやってられるか』
「面倒って。ちょっと学園に寄り道して、私を拾ってくれたら済むだけの話じゃないですか」
『十分に面倒だ』
「ひどい。いいじゃないですか、それぐらい、ケチ」
『仮にも教師に向かって、その言い草か』
「自覚なんてないクセに」
言ってやる。
実際に〝学校の授業〟なんてものは、旧世界が残した概念みたいなものに成り下がっている。授業はすべて選択式で、なんら自習と変わらない。
私たちはそれぞれ、好きな事柄や興味を惹かれたものを共有層からダウンロードして、大人という媒体に形成されていくだけだ。学校は、もう古い習慣や名残といった建前の維持だけに留まっている。
けどその選択式の授業で、重たい紙媒体の本をわざわざ持ち運び、直接、音声でのお話を流すのがこの先生だった。
「本体」で毎日、通っているのは私の他にいない。わざわざ時間をかけて通い続ける理由を、もう少し真面目に考えてもいいのではないか、と思う次第。
「大体、先生は、ちっとも先生らしくないんですよ」
『おまえも、大概【UPDATER】らしくないぞ』
【音声】だけが、忙しく交換される。相手の気持ちは見えない。わからない。
でも、なんでかな。私、笑ってる。
うん、ニヤけてる。えへへ。
相手の顔も姿も、思考の切れ端も見えない。だから、なのかな。自由に想像する余地みたいなものが、ここに、あって。
『――先生。俺もいいっすよね』
「へ?」
意識のなかに、もう一つの音声が割り込んできた。
『週末、俺も予定開いてるんで。ついでに、拾ってってくださいよ』
すごく、ものすごく、不満たらたらーな声だった。
「あら、長井クン。久しいわね」と。
黒髪を、背の半ばまで靡かせた女性が言った。白い肌で、全身はとても細い。
「そちらの子供たちは……」
そっと栞をはさみ、本を閉じて私たちを見つめる。
その視線はとても優しく、儚く感じられて、すこし、ドキリとしてしまう。
「ウチの生徒だ。日坂、こちらは図書館の管理人、桜庭美紀さんだ」
「よろしく。桜庭です」
「よろしくお願いします。日坂四季と申します」
私は頭を下げるまえに、自然と彼女のプロフィールを参照していた。けれど、表示されたのは、
(……登録ナシ。やっぱり【NO_BODY】だ)
先生と同じ。この女性もまた、旧世界から〝消えてない〟ヒトだった。
そして、もうひとつ不思議に思ったのは、
「そちらの女の子は、四季さんというのね。男の子の方は?」
「あ、オレ、いえ、僕は――」
私の双子の弟、弘明は、妙に焦っていた。桜庭さんが【NO_BODY】であることに驚きでもしたのか、なにか熱っぽく、動機が一音高くなっていく。
「そこのねえちゃ、いえ、姉の、双子の弟でして」
どこの子だろう、この弟は。
「そうなの。珍しいわね」
「はい。珍しいらしいですね。はは」
何故か腹が立つので、あとで蹴りを入れておこうと、誓う。
顔をあげてから、直接、弘明の方を見ると、「ははは」とか半端に笑顔を浮かべて、片手で、自分の髪をいじったりしている。今、蹴ろうかな。
「それにしても今日は、来客が多い日だわ」
「なんだ、他にも誰が来てるのか?」
「三人も来たら、当館にとっては来客万来」
桜庭さんは言って。微笑んだ。
「館内の案内、長井クンに任せていいかしら」
「べつに適当に回るだけだ。おまえ達も好きに行動しろ。ただし、静かにな」
先生は言った。最後に付け加えた一言は、旧世界から続く共有のルール、あるいは暗黙の了解、という感じだった。
私はしばらく、先生のすぐ後ろを追いかける形で歩いていた。
「――日坂、勝手に行動しろと言っただろう」
「勝手に行動してるじゃないですか」
「俺の後ろをついて歩き回るのが、勝手な行動なのか」
「私もこちらに、興味がありそうな本があるんです。たぶん」
ウソをついてみる。
先生は共有化されていないから、正確なところの判別まではつかない。でも、きっとそうだと分かるし、私もそれを知って、ウソを口に出した。
その理由は、自分でもちょっとわからない。ただ、そうしてみたかった。
「勝手にしろ」
「はい。勝手にします」
ため息をこぼす先生の側。ついて歩く。
革張りの本がならぶ、その間。棚の空間に、隙間なく閉じ込められた本。先生がそのうちの一冊を手にとる。開いて、はらはら捲る。私も真似する。はらはら。
気になった本はそのまま腕に持ち、そうでない本は戻す。それを繰りかえし、数冊の本を抱えたところで、机と椅子が置かれたスペースに立ち寄る。
私たちはしばし、静謐な空間の一所に向きあって座り、黙々と本のページを進めていった。
「日坂、退屈じゃないか」
「いいえ。そんな事は微塵もありません」
「そうか」
「はい」
私たちは言葉を交わす。直接にやりとりする。
「昔の人たちは、こんな風にして、外部からの知識を得ていたんですね」
「その大半は単なる暇つぶしだろうがな。まだ貨幣というものに価値があった頃、図書館という空間は、そういった意味でも有益だった」
「お金がいらない、ということですか」
「そういうことだ。時間だけが多大に浪費されるわけだな。ただその時間も、今は――」
言いかけ、先生がふと、私を見た。
「日坂、俺はな。【UPDATER】と呼ばれる生命は、はたして時間というものをどう捉えているのか、ずっと気になっていた」
「えっ?」
私は驚いた。先生がそういうことを口にするのは、初めてだった。
「おまえ達は、結婚相手との年齢差異にもよるが、その生を四十歳前後で終えることになる。しかしそれは、自然なことだと捉えているはずだな?」
「は、はい。そうですね……」
私は、どうしてか、ドキドキしながら頷いた。
先生も応えるように、ひとつ、頷いて。
「なればこそ。おまえ達の無意識下には等しく、あるいは正しく『己の時間の有限性』が、貴重な財産であるという風に捉えられているはずだ。けっして、余裕がないと焦って、日々を生きているのではない。ただ、おまえ達は当たり前に『己である日々』を無意識に享受した上で、清く正しく生きているのだと思う。そして、それが事実なれば、この世界に新しく存在する【ヒト】を、俺はこれ以上なく好ましく想うわけだ」
不意に。なにか。胸が熱くなった。なにか、よくわからない感情が込み上げていた。
「先生は」
「なんだ?」
「わたし達のこと、愛してますか?」
目前の人の顔が固まった。驚いている。
「……そういう風に聞かれると、アレなんだがな。まぁ、そうなんだろう」
「ありがとうございます。とても、嬉しいです」
告げる。私の中で芽生えた想いを、言葉に置き換えるのは、簡単で、とても難しい。先生のようにはいかない。
共有回路がお互いにあれば、ありのまま、伝えられるのに。
それができないのが、ひどくもどかしい想いだった。
「だから、俺は疑問を得たわけだ」
「……はい?」
おそらくは、なんらかの感動を覚えている私に向け、先生は言葉を続ける。
「日坂、おまえ自身は時間というものを、どう捉えているんだ」
「えっ」
「共有化されたものでも構わん。おまえの考えを伝えてくれ」
「そ、それはもちろん、大切なもの、です。有限で、取り返しのつかない」
「だろう。では何故、おまえは俺に付き合おうとする。時間を無駄づかいしている俺に合わせることは、おまえの無意識下のルールに逆らい、尊厳すら踏みにじる行為だろう」
今度は、なにか。かちんと来た。
その理路整然とした言葉の流れ。この状況下では納得いかぬ。
「ぜんぜん、おかしくなんかありませんっ」
「いや、おかしいだろう。お前が変わり者なのは知ってるがな。もっと、他の【UPDATER】を見習って、真面目に生きた方がいいぞ。たぶん」
「余計なお世話ですッ!!」
どばん、と。本気で机を叩いていた。思わず、声をあげていた。
顔が、頭が、身体が、ものすごく、熱くて。
でも、ダメなんだって、わかった。
このヒトには、どれだけ面倒くさくても、どれだけ当たり前でも。
ちゃんと、口で、言葉にしてやらないとダメなんだって、わかった、から。
「好きなんですよ! 貴方が好きだから! 側にいるんですッ! この、バカッ!!」
机、叩きながら。生まれて、初めて、叫んでみた。
なんとなく。これから先も、同じようなことがあるんだろうなーって、思った。