#01 A
織田信長。
天下統一を目指した武将。明智光秀の謀反により、本能寺にて自害したとされる。
――しかし、その遺体は見つかっていない。
だから、もしかしたら信長は生き延びていたかもしれないな。
と、黒板の前で楽しそうに語っていた中学時代の担任を思い出しながら、信善はベッドに背中を預けた。
ボスン、という実に柔らかな衝撃。正直、信善が家で使っている折り畳み式ベッドより、遥かに寝心地が良い。そして、上質なこれや他の調度品からも分かるように、この部屋は明らかにお客様用だった。それも、特別な。
事実、窓から見える景色はとても素晴らしい。
この建物――城自体が、高いというのもあるのだろうが、それが建っている場所が高台であり、城下に広がる街並みを一望できるのだ。さらに遠くを見渡せば、雄大な山々の緑と澄みきった空の青。しばらく自然とは無縁の生活を送っていた信善の心を、それらは大いに癒してくれた。
癒してくれた……が、限度というものがある。
「はぁ……暇だ……」
あの日から、今日で三日目。
そして、この部屋に連れてこられ、閉じ込められて三日目。
この部屋は生活用品こそ一式揃っているが、丸一日過ごすにはあまりにも不向きだった。もちろん、ファンタジー感溢れるこの場所にテレビなどは端から期待していないが、ここには本なども一切ないのだ。
その上、自分の持ち物と呼べるものもこれくらい。
と、信善はゆるゆるとポケットからスマホを取り出す。そして電源ボタンを長押し。ややあって、真っ暗だった画面が明るく輝いた。
しかし、そこに表示された文字は、信善にため息を吐かせるだけだった。
「そりゃ、やっぱり圏外だよなぁ……」
予想していたことだし、これまでに何度も確かめたことでもある。だから落胆はしなかったが、どうしても思ってしまう。
これからどうしよう。というか、僕はどうなるんだろう、と。
あの後。
玉座に座っていた男――つまりはこの国の王が、信善のことを『織田信長』と呼んだ後、その場にいる全員が信善の前に跪いた。護衛の騎士はもちろんのこと、国王までもが、だ。
当然、あまりの変化に驚く信善。ただでさえ驚いていたところに、さらなる驚き。これなら槍を突き付けられていた方が、まだ状況が分かりやすいと思ってしまったくらいだ。
しかし、そんな信善に、
「よくぞお戻りくださいました、ノブ様」
「ご尊顔を拝見でき恐悦至極にございます、ノブ様」
「また我らをお導きくださいませ、ノブ様」
と、国王、長髪の男、小柄な男、の順にさらに頭を垂れる。そして、
「今回は是非、我らの国に!」
というのは、顔を上げた三人の男から異口同音。
まるでコントみたいだな、と不謹慎にも思ってしまった信善をよそに、もうその後は水掛け論。我らの国こそ、我らの国こそ、と三者が一歩も譲らず、結論が出るまでとりあえずノブ様はお部屋でお休みください、と言われたまま今現在、三日目の朝を迎えたというわけである。
しかし、さすがに三日は長い。
三食豪華な食事が出され、着るものにも困らず、季節のおかげか何もせずとも室温も最適。さらには、呼べばすぐさま外に控えるメイド(某電気街に沢山いる方々と比べるとスカートが長く、無駄な装飾もなく実用的だと思うが、実際に行ったことも見たこともないので信善には何とも言えない)がやってきてくれて世話をしてくれるという、普通に生きていたらまずないであろう破格の待遇であっても、飽きるものは飽きる。特にここ最近、寝ている時間以外はほとんど仕事、あるいは仕事のことを考えていたので、何もできない状況というのは信善にはかなり厳しいものがあった。
だからまあ、
「少しだけでも外出、お願いできませんか? せめて城の中だけでも」
と、二日目の昼食を運んできてくれた若いメイドに頼んでみた信善だったが、
「も、申し訳ございません! 私如きでは何ともお答え致しかねます、本当に申し訳ございません!」
と、短い間に二度も謝られ、その上逃げるように部屋をあとにされたので、諦めた。というより、心が折れた。若い女性に怯えられるのもまた、二十六年生きてきた中で初めての体験だったから。
だから必然的に、部屋から脱走しようなんて考えも出てこなかった。
厳密に言えば考えてみたものの、扉の外で控えるメイドは交代制らしく、自分が脱出を試みたタイミングが彼女の勤務時間帯だったら、一体どんな反応をされるだろうか、最悪悲鳴でもあげられるんじゃないか、と怖くなってしまったので断念したのだ。
つくづく小心者だな、とベッドに仰向けになりながら思わず笑ってしまう信善。
しかし、そんな人間がこんな風に安心して寝転がっていられるのは、間違いなく織田信長のおかげだった。まさか歴史上の偉人に助けられることがあるとは、と思いを巡らせているタイミングだった。
コンコン、とノックの音が響いたのは。
「ノブ様、入ってもよろしいですか?」
渋みのある男性の声。どうぞ、と短く答え、信善は勢いよくベッドから起き上がった。
「失礼致します。私、ヒューリ王国騎士団の団長を任されております、ラウムと申します」
「あ、これはご丁寧にどうも。織ノ田信善です。で、あのー、どうか普通に立ってもらえるとありがたいんですが……」
「はっ、ノブ様の仰せのままに」
信善が遠慮がちにそう頼むと、部屋に入ってくるなり跪いた男――ラウムは言葉に従い、すっと立ち上がった。
華やかさこそないものの、位が高いと感じられる服装。銀というよりは灰色に近い髪を全て後ろに流し、歳は五十代前半といった感じ。そして何と言っても、その鷹のように鋭い青き双眸が特徴的な男性だった。
――なんとなく、じいちゃんを思い出すな。
武の心得を持つ者特有の雰囲気に、信善が少し気圧されていると、ふっとラウムの口元が緩んだ。
「やはりノブ様にも戦場の経験が?」
そう言って、ラウムが自分の右眉を指差す。そこは信善にとって、眉の一部を分断するように走る傷跡が残る場所。だから意味を理解すると、信善は慌てて否定した。
「いえいえ。これは剣道でちょっと怪我しただけで、戦とかそんなものでは」
「ケンドー、ですか?」
「はい。ああ、えっと……まあ、剣術の一種ですかね」
「なるほど。そちらの世界の剣術ですか」
興味深く頷くラウムに「まあ、立ち話もなんですし」と、近くの椅子を勧め、信善も向かいの椅子に座る。するとラウムも「かたじけない」と、素直に言葉を受け取った。
窓際に置かれたテーブルと一対の椅子。向かい合う二人の男。
窓の外では、白い雲がゆっくりと流れている。
「で、僕はこれからどうなるんでしょうか?」
と、先に口を開いたのは信善。
通常であれば訪ねてきた方の用件を聞くのが先だが、今の彼にそこまでの余裕はなかった。気づけばどこか分からない場所にいて、何故か分からないが織田信長に間違われ、結局よく分からないまま今に至っているのだ。マナーよりも気持ちが勝っていて当たり前である。
すると、そんな心境を察したのか、ラウムは少しだけ表情を柔らかくした。
「ご安心ください。大変お待たせしてしまいましたが、本日中にはノブ様の待遇諸々、決まると思いますので」
ちょうど私もそれをお伝えに参ったのです、とラウムは言う。
「そうでしたか、ありがとうございます。ですが、その……『ノブ様』って呼び方、できればやめていただけませんか? 他の方にも言ったんですが僕、織田信長の生まれ変わりとか、遺志を継いでいるとか、そういうんじゃないんで」
それに彼の子孫なら、氷上で演技しているのをテレビで見たことがある。
とは、話がややこしくなりそうだったので口には出さなかったが、しかしその申し出にラウムは首を横に振った。
「いえいえ、そうはいきませぬ。炎を纏いてエデンより降臨され、その上『ノブヨシ』と名乗られましたら、我らとしては運命を感じずにはいられません」
ですのでどうかご辛抱いただければ、とラウム。
だが、信善の心は今そこにはなかった。
――エデン、か……。
その言葉を聞いて、改めて自分が異世界にいることを実感する。もちろん、そうでなければ説明ができないことがこれまで山ほどあった。王や騎士、メイドなどの存在もそうだし、地元密着型スーパーの事務所から一瞬でファンタジー全開の謁見の間など、その最たるものだ。
しかし、エデンとは皮肉なものだな、と信善には思えてしまう。
あちらの世界は、少なくとも楽園と呼べるものではなかった。もちろん、悪い面だけだとは言わないし、言えない。特に自分は恵まれていた方だと思う。だけど、ありとあらゆるところに大小様々な問題があり、それらを解決する前に次の問題が生まれてしまうのもまた事実だった。正直、こちらの世界の方がエデンに相応しく感じる。
まあ、結局は隣の芝生は青く見えるってことか。
そう結論付け、信善は心を手元に戻す。今のラウムの言葉から、新たな疑問が生まれたからだ。
「ところで、向こうがエデンでしたら、こちらの世界は何と言うのですか?」
「む? ああ、これは失礼。説明がまだでしたかね。こちらのことを、我らはエルシオンと呼んでおります」
「なるほど。では、このエルシオンにて織田信長は何をしたのでしょう?」
その瞬間、ラウムの目が鷹から梟へと変わった。目を丸くするとはこういうことなのだと、信善もラウムの変化に驚きつつも実感した。
大の男が見つめ合うという、なんとも言えぬ静寂。
しかしそれを打ち破ったのは、今度はラウムの方だった。
「……くっくっく……」
それは、笑い声だった。声を噛み殺しながらも、肩を震わせラウムが笑っていたのだ。
はたして自分は何かおかしなことを言っただろうか、と頭を働かせようとした信善の耳に、「いや、失礼。大変失礼」と少しだけ笑いの混じるラウムの声が届いた。
「なんとまあ、常識とは恐ろしいものですな。申し訳ありませぬ。ノブ様――織田信長様の功績は、エルシオンでは誰もが知っていることでして、そのせいで説明が疎かになっていたようです。国を代表し、お詫び致します」
言って頭を下げるラウム。比較的気さくな印象を受けるが、それでも騎士団をまとめる長たる立場の人間だ。その頭は決して軽くはないであろう。
それに何と言っても、年上の人間に頭を下げられるというのは恐縮してしまう。どうにも落ち着かない。だから慌てて、
「いえいえ。それで、信長は一体どんな功績を?」
と、信善が続きを促すと、ラウムは頭を上げ、それに従った。
「はい。実は、かつてこの世界には三国による大乱の危機がありました。きっかけは、単純な不和。しかしそれはもう、エルシオンを滅ぼしかねないものに発展していったそうです。そして今まさに開戦しようという時、全軍が睨み合うちょうど真ん中に一本の巨大な火柱が! その中より現れ出でたのが、他ならぬノブ様です! そして目を血走らせる騎士たちを見渡し、天を轟かせる声でこう吼えたのです――『汝ら、何を為すために戦うのか!?』と!」
熱のこもった語り。まるで演劇を見ているようだった。
しかし次の瞬間、ラウムはハッとしてそれをそこで一旦止めると「年甲斐もなくお恥ずかしい」と声のトーンを戻した。
「実は私、幼少期にこの話を聞いて騎士を目指したクチでして……」
「なるほど」
そういった経験は、信善にもあった。自分は何にでもなれると思っていた頃は、テレビの中の正義のヒーローに憧れたものだ。
しかし今ここで、それを語らい合っているわけにもいかない。第一、この世界に特撮ヒーローはいないだろうし。
だから信善は、話を前に進めることにした。
「それで、その後はどうなったんです?」
「はい。その後は、ノブ様のお言葉に感銘を受けた騎士たちは武器を手放し、誰も血を流すことなく戦は終わったとされています。そしてノブ様の導きにより平和協定が結ばれ、その上、各国にエデンの知識を分け与えてくださったのです。故に我らもエルフもドワーフも、ノブ様を我が国にお迎えしたいと躍起になっているのです」
「――エルフ? ドワーフ?」
耳に入ってきた言葉を、そのまま口に出す信善。この世界のファンタジー感はひしひしと感じていたが、その単語を聞くのは初めてだった。
だから思わず零れた疑問符だったが、ラウムの目が再び梟のそれに変わっていくのが見え、信善は急いで言葉をつなげた。
「ああ、大丈夫です! 分かります! ええっと、あの……僕がこちらに来たときに、謁見の間にいらした方々ですよね。確か、緑の目をした長い金髪の男性と、赤い目で頬に傷のある小柄な男性」
自分の持っているイメージが正しければ、おそらくは長髪がエルフで、小柄がドワーフだろう。昔観た映画(地上波で、だが)も、そんな感じだった。
それに、こうなることは先ほどのことからも予想できたはずだ。自分たちの常識を説明するということ自体、なかなか思いつかないものだと。以前、惣菜のお寿司コーナーで「何故、ここの醬油は無料で配っているのか?」と外国のお客さんに訊かれたことを、信善は今さらながら思い出す。
するとその判断のおかげか、頭を下げるかわりにラウムは感嘆の声を上げた。
「ほう。こちらにいらしたときは、相当な混乱だったと聞いておりましたが、瞳の色まで見ていらっしゃったとは。いやはや、さすがはノブ様、優れた観察眼をお持ちで」
「いえいえ。職業柄、一日に何人ものお客さんと会うので、自然と身に付いただけですよ」
それに、あんな色の瞳はどうしたって目立つ。いくらカラーコンタクトというものが普及しているとはいえ、緑や赤という奇抜な色を選んでいる人は、あちらの世界でもなかなか見かけない。
「ほほう、お仕事で培った能力ですか。一体、あちらでは何をなされておいでで?」
「あー、そうですね……えーっと……」
スーパーの従業員、というのはまず間違いなく通じないだろう。エルフやドワーフがいる世界にスーパーがあったらびっくりだ。
だからまあ、商店と説明するのが無難かな、と思い至ったときだ。
『♪ ♪ ♪』
場に一切そぐわない音楽が、鳴り響いた。
「何者だっ!?」
とっさに動いたのは、やはり騎士たるラウムだった。
その手には、銀に輝く短剣。どこに持っていたのか、そしていつ取り出したのかは信善にはまるで分からなかったが、気付いたときには彼はそれを音源に向かって構えていた。
しかし、それを受けても鳴りやまない音楽。ラウムを挑発するかのように、緊張感のないメロディが部屋に響く。
と、そこでようやく信善の頭は回り始めた。
聞き覚えのある音楽と、心当たりのある方向。
しかし一方で、どうして、という疑問も浮かぶ。この世界において、あれは間違いなく基本の役割を果たせなかったはずだ。
だが、全てはそれを取ってみれば分かること。
だから「お下がりください、ノブ様!」というラウムの制止を逆に手を制し、ゆっくりと近付く。そして、ベッドの上で小刻みに震えるそれを手に取ると、通話のボタンを押した。
『おっそーい! というか、何でずっと電源切ってんのよっ!』
とりあえず怒られた。
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【あとがき的メモ】
本来の予定では、主人公の相手は16歳の少女でした。
どうして、50代前半の御仁になった……。