エピローグの4
馬車が動き出し、ネイバンの本通りを走る。
窓から身を乗り出して手を振ってくる人々に苦笑いを返しながら、アリストは心もち馬車を急がせた。
ネイバンの街門をくぐり、森へと続く道へ出る。緩い上り坂になっている道を、馬車は快いスピードで駆けて行った。
「ひとまずフォルドの屋敷に帰ろう。エルの翼を元に戻すのはそれからだ」
天使の骨を手に入れるために屋敷を出たが、結局何の収穫も無い旅になってしまった。
いや、何も無かったと言うのは間違いだ。
アリストは後ろの席をそっと見た。そこでは鈴音がエルに何かを話して聞かせていた。耳を澄ませば、今度はトーアの昔話のようだった。黒猫が鳴き、相槌を入れている。
求めるセルトの未来が、少しだけ実現に近づいた気がした。
アリストは流れていく丘陵の景色に目を移した。
遥か昔、この地からセルトは守られた。
一人の少女の意思によって、遍く命は守られた。
彼女は人間だった。
誰の死も願わない、ただの一人の少女だった。
「ザ・ワンダーワーカー、か――」
彼女が殺したのは、たった一人のマルベルだけだった。
――絶望したくなかったんだ。
裏切った魔法使いの少年は、何を思いながらその生を閉じたのだろうか。
それにあの羽は、いったい何のために隠されていたのだろうか。
「……」
きっと、彼女のためだ。
壮絶な戦いを繰り広げ、傷を負うであろうアリス。少年は彼女を痛みから守るために、密かに天使の羽を保管していたのだ。
その思いに気付かずに、彼女は彼を殺してしまった。
遠くを見過ぎて、近くにあった優しさを踏みにじってしまった。
ほんの少しだけ、立ち止まって隣を見ていれば。そうすればきっと彼女も、何よりも尊い思いに気付けたに違いない。
「……それにしても、随分と鈍感だったんたな、ワンダーワーカー」
アリストは呟くと、ふっと空を仰いだ。空に掛かっていた薄雲は、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
黒眼鏡越しに見上げる空は、いつになく透き通っている気がした。
――空は遠いけれど、近い。
近いと思える限り、いくらでもこの手で手繰り寄せることができる。
アリストはそっと手を伸ばした。
この手にいつか、遍く隔たりを取り去る術を手に入れたなら――
また、あの海辺に行こう。
もう、水平線に落胆したりしない。絶対的な境界の象徴だと、嘆いたりもしない。
あの向こうにはトーアがある。
そして彼方の地にも、いつか願いが広げられる。そう思って笑えるはずだから。
不意に、懐かしい日の記憶がよみがえってきた。
『風はね、ここから始まるんだよ』
少女は嬉しそうに笑っていた。
始まりは隣にある。そう教えてくれた少女。
伸ばすべきこの手に気づかせてくれた少女。
そして、今日もまた気づいてくれた少女。
「二人目のワンダーワーカーは、お前だよ。鈴音」
誰にも聞こえないように呟いた一言は、緩く吹く風の中に溶けていった。
心なしか初春の風は、今までで一番暖かい気がした。
Fine.




