エピローグの1
たまりかねた黒猫が、また十字架をぱしりと叩いた。
「っ! だから痛いって言ってるだろ、チェシー!」
アリストは顔をしかめながら叱った。
しかし黒猫は金色の目でこちらを一瞥すると、ぷいっと顔を前に戻した。
「早く来いって言ってるのは分かるよ。ただな、俺はこの速さで歩くのがやっとなんだ!」
先を行く黒猫に、アリストは訴えた。
下り坂を滑る黒猫のしなやかな体。漆黒の体毛は厚い牧草の中でも目立ち、何とか見失う事を免れていた。
「どこに連れて行こうって言うんだよ」
不服混じりに独りごちると、また先で黒猫が鳴いた。
イーゼルが削れに削れた体に鞭打って歩いているのに、先導する黒猫はどこへ行くのかも教えてくれない。猫だからしゃべれないのは当然なのだが、何となく不服がつのる。
猫型のマルベル。夢見せのナイトメア。
他者のイーゼルに干渉し、悪夢を見せて回ると言うマルベルの一種。その目的は悪戯が主だと言われているが、この黒猫の所業には何か別の目的があるように思えた。
俺とエルに見せた、ワンダーワーカーの記憶。チェシーにとっては飼い主だった彼女だ。主の記憶を悪戯で暴くとは思えなかった。
「あの時代にナイトメアを飼ってたアリスもアリスだな」
アリストは何とも言えない気持ちで呟いた。今より有魔無魔の確執が激しかったと言われている時代。そんな折に、アリスはナイトメアをペットにしていたのだ。
歴史書に記されない部分。
見えない所で有魔と無魔は、少なからず打ち解けていた面があったのかもしれない。
種を隔てる厚い壁。そんな壁に開いた小さな穴を通し、互いに交流を持った者たち。アリスとチェシーは、その象徴だったのではないだろうか。
探せばきっと、同じような例は見つかる。
そして自分たちも、そうなる事ができれば。
アリストは軽く後ろを振り返った。
「鈴音。エル」
にゃー!
ばしん
「たっ!」
十字架を思いっきりはたかれ、思わず悲鳴を上げた。
「お前! 爪出してたんじゃないか!?」
アリストは右目を押さえて足元を睨み付けた。
黒猫はじっとこちらを仰いでいた。あまりに遅い追随にしびれを切らしたのだろうか。
「いや、ここで止まれってことか?」
きょろきょろと見回すが、しかし辺りは何の変哲も無い牧草地だ。
再び黒猫が十字架を弾く。
「いっつ……こっちだって?」
先程と違う方向を向いた十字架。今度は斜面を下らず回り込めと言う。
「どこかへ案内したいのは分かるけど、こんな力ずくのダウズをさせるなんて……」
ため息を吐く。黒猫は一つ鳴くと、十字架の方向にさっさと行ってしまった。
アリスの飼い猫は何を教えたいのか。思えばB&Bでペンデュラムを持ち出そうとしたのも、どこかへ案内したいがためだったのかもしれない。
むしろアリスの悪夢を見せたのも、何かを教えたい魂胆からではないだろうか。
しばらく進むと、緑色の斜面に大きな岩が現れた。気のせいか、耳に水音のような音が聞こえて来る。
「ここか?」
黒猫はぴょこんと岩の上に飛び乗ると、金色の目でアリストを見つめた。そして、ふいっと岩の向こうに首をめぐらせた。
アリストも岩の元へと歩み、滑らかな表面に手をついて向こう側を覗き見た。
「……ああ」
嘆息に混じった声は、知らず笑みを帯びていた。
岩の裂け目から、水が湧き出していた。
ちょろちょろと流れる水は、岩にできた窪みに小さな水たまりを作っていた。ここから溢れた水は再び、岩の奥に吸い込まれている。
湧水がほんの少し、陽の光を浴びる場所。
小さな小さな海の底には、一枚の羽が沈んでいた。
澄んだ水越しの白は、一かけらも褪せていなかった。そう、七百年を経た今でも。
「天使の羽か……」
にゃぁ
岩の上で猫が鳴く。
「お前、これを教えたかったんだな」
アリストは顔を上げ、黒猫に笑った。
「エルの仲間の羽。セルトから消えた天使の羽を、もう一度エルに見せたかったんだな」
だからお前はずっと、エルの棺の上で待ち続けていたのか。
エルが目を覚ますまで。棺を開ける誰かが現れるまで。
その想像までを肯定するかのように、黒猫は一段と嬉しげに鳴いた。




