3章の29
両腕を許される限り伸ばし、天使の元へと身体を投げ打った。
霞みかけた視界へ小さな体が飛び込んでくる。
指先をワンピースがかすめた。
「――っ!」
その時、暖かな風が拡散した。
「ぅわっ」
風がアリストの体を吹き飛ばす。流される体に、ぽすんと何かが飛び込んできた。
ざっ、と背が草地を擦った。
「っ――」
風が収束する。アリストは背に地面を感じながら、ゆっくりと目を開けた。
腕の中で、天使の少女が眠っていた。
まるで眠れない夜に添い寝をねだる幼子。意外なくらい穏やかな顔で、エルは目を閉じていた。
痛みは、無かったのだろうか。
アリストは身を起こした。草地の上に座り込んだままエルを隣に横たえる。
少女の背にあった骨の翼は消えていた。
顔を上げると、少し離れた所に棒状の物が二本突き立っていた。
「ごくろうさま」
目線の先には、ペンデュラム。そしてそれを結わえ付けた白骨の剣。
そのそばに突き立つもう一本の物も、骨の色をしていた。
エルの背にあった、もう片方の翼の骨だった。
「ごめんな」
アリストはエルの背を見て呟いた。
綺麗に切断された骨の基部が、ワンピースの背に残っている。
この翼を断ち切ったのは、アリストの放った剣の刃だった。
ペンデュラムに導かせた骨の剣は、思惑通りもう片方の翼を切断し、エルから飛翔の術を奪った。イーゼルを込める場所が無ければ、天使とて飛ぶ事は叶わない。
飛ぼうとした道は誤っている。そう言うために翼を奪った。
この翼を、自ら終焉への術にしないでほしい。
「ん……」
見下ろす視線の中で、エルが身じろいだ。
ゆっくりと開かれるまぶた。その奥の両目を見、アリストはひとまず安心した。
その瞬間、エルが弾かれたように身を起こした。
勢いのままアリストに跳びかかる。アリストは押し倒され、頭をしたたかに打った。
「っ!」
「なんで!? なんでじゃまするの!?」
涙混じりの叫び声が叩き付けられる。
「みんなのところに行くつもりだったのに! あたしも空気になるつもりだったのに! なんでじゃまするの!?」
両肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられる。イーゼルを消耗し薄れた意識が更に遠のきかけた。
「え……エル……っ」
「放っておいてよ!」
「……ダメだ」
「もういいの! あたし死んでもいいんだから!!」
エルは大声で叫んだ。
「アリストのバカ!」
ふわりと、何かが頬を撫でた。
遅れて肩を掴んでいた手が離れる。体に掛かったエルのわずかな重みも、ふっと消えた。
「……?」
「バカだから願い続けられるんですよ」
やさしい声が聞こえた。
「ただ、その願いも行為も、私は尊いと思っていますよ」
「っ……やっ!」
「何かを遂げようとする人は、いつだって愚かです。でも、その愚かしさが、願いを遂げる一番の力になるんですよ」
じたばたと暴れていたエルが、次第に大人しくなっていく。
「体裁も虚勢も身の安全も、完全に忘れてしまうような愚かしい人。それ以上の何かを求めているから、しがらみを忘れて真っ直ぐになれるんです。尊い奇跡を起こす人はみんな、強すぎる意思の故の愚かさと共存しているんですよ」
紡ぎ出される言葉は、優しさと確信に満ちていた。
「……やあっ、はなして」
「私も愚かだから、聞きませんよ」
「っ……」
「……」
誰もが口をつぐみ、そして動きを止めた。
アリストはうっすらと目を開いた。
その瞬間、坂を上ってきた風が一気に天へと吹き上がった。
ざぁぁああっ
「――っ」
とっさに片目を瞑っていた。
右目の視界だけになった世界は、輪郭を無くしていた。
おぼろげに交じり合う色彩で形成された景色。
翼の生えた天使がそこに居た。
小さな体に、まっしろな翼をたたえている。
広く大きな翼。やわらかそうな羽が、淡いブルーの空にはためいている。
エル。
アリストは両目を開いた。
そこにあったのは、エルと、エルを後ろから抱きしめる鈴音の姿だった。
着物の広い袖が吹き付ける風にはためいている。
純白のそれは、まるで天使の翼だった。
天使――……
遠い記憶がよみがえる。鮮やかな夕焼けだった空は今、雲越しのブルーに変わっている。
そして着物を着た異国の少女も、時と共に美しく成長していた。
――ねぇ。
「なぁ」
とても小さな呼び声に、鈴音は目を開いた。
「風はどこからやって来るんだ」
一瞬、鈴音は驚いた顔をした。
そしてすぐに、満面の笑みを返してくれた。
「ここからですよ、アリスト様」
記憶と同じ答えが、初春の風の中で躍った。




