3章の26
「エル!」
アリストは空目がけて叫んだ。
びくりと震えたのは、宙に身を浮かべた少女。彼女は振り返り、こちらを見下ろした。
「……アリスト」
「降りてきてくれ! お前はもう、誰を殺す必要も無いんだ!」
声の限りに叫ぶ。
「殺さないといけない誰かなんて、初めから居ない。復讐で解決すべき問題は何一つ無いんだ。分かってくれ、エル!」
エルは相変わらずの無表情を投げた。
「……エル!」
「アリストはうそつき」
短く吐き出された言葉に、アリストは身を固めた。
「みんなみんな、うそつき。魔法使いは死んだって言われたのに、生きてた。あいつらが死ぬ前にアリスが毒を終わらせたの」
アリストはこぶしを握った。
「……確かにワンダーワーカーは、魔法使いが全滅する前にセルトの疫病を収束させた。お前たち天使の目的は遂げられなかった。でも、そうしないとセルトの全ての命が息を途絶えさせたかもしれないんだ」
「知ってたよ」
さらりと言うエル。アリストは目を丸くした。
「何もきれいじゃなくなったの。みんな、自分がいちばん大事だった。誰も助けてくれなかった。だからあたしたち、泣いて泣いて毒になったの」
ずきりと胸が締め上げられるようだった。
「〝となり〟はちがう場所なの。あたしたちの事なんか、誰も見てくれなかったの」
淡々とした声音だからこそ、潜む悲痛が心を揺さぶった。
「だから復讐したよ。あたしたちも、きれいじゃない世界は見ない。こんな世界は恨みでもっと汚れてもいい。見ないからいいの」
エルは目をつむった。
「あたし、ここから始めたんだよ。この丘から、空いっぱいに毒を撒いたの。あの山まで行って、そこから海まで飛んで、また戻ってきて。空っぽになった籠はどこかに落としちゃった」
すっと瞼が開く。
「一回だけ、うしろを見た。そうしたら、夕焼けの色だった。朱くて、遠くて、きれいだったよ。だから……ちょっとだけ思った。また世界がきれいになればいいのになって。元に戻ればいいのになって」
何の表情も交えずに、エルは小首を傾げてそう言った。
「元に……この七百年後の今は、お前の求める〝元〟にはなれないのか?」
「今?」
「この今の時代……世の中は変わってしまったし、未だに有魔無魔の隔たりはある。でも、少なくとも、お前が消し去りたいほどに嘆いた時代よりは良くなっているはずだ」
アリストは一歩前に出た。
「今もまだ、完全だとは言わないさ。別種を憎む感情は誰であれ持っている。ただ、ワンダーワーカー以降、それが爆発しないような社会が作られてきたんだ」
「……」
「理解し合えてはいない。思い合うなんて夢のまた夢だ。ただ、俺はその夢を叶えたいと思ってる。誰もが何にも怯えることなく、穏やかに過ごせる時を作りたいと願ってるんだ」
自らの願いを、強い声音で放った。
「不必要な血はきっと流れない。いや決して流れさせない! 恨みをやむなく殺戮で払うような世界を、受け入れ続ける必要は無い。誰もがそれに気づいた世界は、きっとエルが望む以上に綺麗だと思う。そうじゃないか!?」
空に声がこだまする。
エルは表情を変えないまま、じっとアリストを見下ろしていた。
エルの背の骨がしなった。
すると地面の上で風が巻き起こり、そこにあった何かがアリストの元へと運ばれた。




