3章の25
ひゅるりと風が頬を撫でていく。むき出しの肩に初春の風は冷たかった。
しかしエルにとって、そんなことはどうでも良かった。
「風が吹いてる」
丘を撫でる風は、地面を覆い尽くす厚い牧草を絶え間なくさざめかせている。海か湖の傍に立っているような錯覚を覚えさせる音。遠い記憶を辿れば耳に幾度も甦った。
「海はきれいなんだよ」
足元の黒猫に、エルは教えた。
「知ってる? すごく広い水たまり。セルトはこの前で終わって、ここからはべつの世界になってるの」
黒猫は頷くように鳴き声を上げた。
「青くて、時々白くて。いつか空と混ざっちゃいそうって、ずっと見てたら思ったよ」
タリアの丘の頂に佇み、ぐるりと景色を眺める。この場所から海を臨む事はできなかった。
広大に広がる景色は、緩やかに起伏する丘陵に大半を占められている。鮮やかな緑の遥か先、視線を遥か彼方に擡げれば、切り立つ山々や生い茂る森の樹冠が待ち受けている。
「いっしょ。ずっと前と一緒」
エルは景色の彼方も此方も見つめ、呟いた。
「変わらない。風も景色もあの日とおなじ」
エルはワンピースのポケットを探った。
しゃらん、と目の前に掲げたのは、十字架のペンデュラムだった。
美しい水晶の球を、黒猫もじっと見つめていた。
「ねえ、魔法使いはどこ?」
求める答えへの道を示す十字架はしかし、何も言わないままエルの前に垂れていた。
「教えてよ。あたしが殺す魔法使いはどこ?」
風がワンピースの裾を大きく煽った。
しかし十字架は微動だにせず、吹き付ける風の中にじっと佇んでいた。
「うそつき」
にゃー
「みんな、うそつき。アリストもリンネもみんな。アリストの目も、うそつき」
非難を受けようと、十字架はぴくりとも身じろがない。これが答えであると訴えるように、強い風に吹かれながらもその場に佇み続けている。
「……」
エルは口をつぐんでペンデュラムを見つめた。
黒猫が小さな手で十字架をぱしりとはたいた。
「こら」
じゃれついているのか、飛び上がり、またはたいた。十字架は同じ方向に揺れた。
「もうダメ。終わり」
さっとペンデュラムをひっこめる。空振りした黒猫の腕。
黒猫は草地に着地すると、何かを訴えたそうに大きな声で鳴いた。
「終わり。終わりなの」
独り言のように、エルは呟いた。
ざぁっ
強い風が坂を駆け上がる。吹きつけた空気は、エルの短い髪とワンピースを揺さぶり、薄く雲のかかる空へと吸い込まれていった。
つられて天を仰ぐ。
かつて両翼を広げて飛んだ空がそこにあった。
「――みんな」
太陽の明るい影が淡く雲に光を滲ませている。零れ落ちてきそうな光の海は、手を伸ばせば容易く届きそうだった。
エルは右手を光にかざした。五本の指の輪郭から、雲越しの淡い光が差し込んできた。
「みんな……」
ぽさり、とエルの足元で音が立つ。ずっと左手に握っていた、自らの翼の骨でできた剣だった。
エルの手から落ちた剣は、牧草の波にうずもれるように身を横たえた。
骨色を呑み込む緑。
朽ちるべき死体がようやく自然に還っていく。そう思わせる光景だった。
その隣にそっとペンデュラムを置くと、エルは背に残った骨の片割れをしならせた。
「行くよ……あたしもやっと。みんなのところに」
体がふわりと浮き上がった。
その時だった。




