3章の24
アリストは慌てて駆け寄った。
彼女は伸びきった牧草に半分埋もれながら、着物の胸元を掴んで喘いでいた。
「ぁ……っ……ごめん……なさ」
ぜいぜいと漏れる息。
「っ……土鈴を鳴らしたせいで……イーゼルがかなり削れちゃったみたいで……」
苦しげに呻くと、歯を食いしばった。
「土鈴……お前が持ってる中で一番強力な魔具だな」
魔法を使えばイーゼルは消耗される。マルベルほどではないが、イーゼルの大きな消耗は顕著に体力に響いてくる。休息を取らない限り、イーゼルを回復させるのは無理だ。
アリストは鈴音をそのままに立ち上がった。
「俺一人で行ってくるよ。お前はもう少し休んでいた方がいい」
「でも、アリスト様……」
不安気に見上げる彼女に、アリストは小さく微笑む。
「置いて行かれる方の気分、たまには堪能してみろよ」
一瞬、鈴音はきょとんと目を丸くした。
「……あ……あはは。さっきの私への仕返しですか」
苦しげな表情の中で、精一杯の笑いを返してくれた。
「わかりました。早く行って……エルにそんな必要ないって気づかせてあげてください」
アリストは頷き、彼女に背を返した。
緋色の袴が視界の端に消える。
アリストは丘を駆け上がりながら、並走する風に呟いた。
「気づかせる……」
気づいた罪人。奇跡を起こした少女の最後の言葉が頭に響く。
『もう、許してあげて。気づいた罪人は何度も涙を流したのだから』
あれは紛う事なく、天使に向けて紡がれた言葉だった。
エルはこの言葉を受け入れてくれるだろうか。
世界を恨み、絶望し、自らの身を毒の粉と化して復讐した天使の彼女が、敵の罪を甘んじて許すなどあり得るだろうか。
いや――例え否定されようとも。
拒絶されようとも、気づかせる。
流れ出る血液では、いかなる憎悪も洗い流せないという事を。罪が洗われるのは、罪人と共に涙を溶け合わせるその時だという事を。
「気づかせるさ。俺たちが」
地を蹴る力が強くなる。
黒眼鏡越しの景色が、激しい疾走の中で次々と移り変わる。丘の斜面を駆け上がる風が耳の後ろで低くうなりを上げた。
空はいつの間にか雲を広げつつあった。鮮やかな青の覗く部分は僅かとなり、切れ間の無い薄雲が天に霞みを掛ける。
まだ、終焉に覆われる時間じゃない。
ワンダーワーカーだって、こんな空の下で微笑んだじゃないか。
厚い牧草が波音のようなさざめきを立てる。
まるで水面を走るような感覚。幼い日に夢見た、空と海の融和がよみがえる。
今ここでなら、絶対的な境界を破ることができる気がする。
空が青さを留めている限り、混ざり合おうと水面から手を伸ばす価値はある。
だから走れ。
走って、もう一度小さな天使に出会って、本当の今を気づかせる。
それで初めて、七百年前に起きた奇跡は終わる気がした。




