3章の22
「……え」
「トーアで育ったお前が、たった数カ月でマルベルへの感情を変えてしまうのは無理だ。いや、憎いなら憎いままでいいさ。お前の中のトーアを捨て去る必要は一つも無い」
驚き見開かれた瞳が、じっとこちらを見た。
「でも……」
「確かに俺は言ったよ。『死を願われるべき命は無い』って。これは憎悪を否定したんじゃない。殺すと言う行為だけが解決の手段じゃない、そう言いたかったんだ」
また一つため息をつくと、アリストは視線を流した。
「俺の一言のせいでお前を悩ませてしまったなら、謝るよ。そう気づいてほしいと願ったのはこの俺だからな。全く違う考え方の中で生きてきたお前に考え方の根本を揺さぶるような事を言って、すまなかったと……」
がっ、とジャケットの胸元を掴まれた。
びっくりして前を見ると、そこには真剣な表情の鈴音がいた。
鈴音は両手でアリストの胸元を掴むと、押し倒すような勢いで詰め寄った。
「違います! アリスト様が謝る必要なんてどこにも無いですよ! 私がセルトに来たのは、アリスト様のような神術師になるためなんですから!」
と言った所で、あっ、と鈴音は口元に手をやった。
勢い余って滑り出してしまった事実。彼女の頬がみるみる赤く染まっていく。
「っ……えっとあの」
やり場のない目をうろうろさせる。
「つ、つまりですね。私は幼いながら真の平穏を願うアリスト様の言葉に感銘を受けまして、それであの、その、あの日からずっと」
「……」
「ずっと憧れて――って、ああもう!」
バンっ! と石の床を殴る。
「いった!」
鈴音は床を殴りつけた左腕を振り回した。
「おい! バカかお前は!」
衝撃で傷が開いたのだろう、ハンカチに新たな黒い染みが広がる。アリストはさ迷う鈴音の左腕を掴むと、ハンカチを更にきつく結び直した。
「……こんな傷を負っても、まだ自分を責める気なのか?」
静かな声で問う。
「お前が戦うのは、何かを守るためだ。俺はずっとそう信じてる。大切なものを守るために傷ついたお前を責める資格は、お前を含めて誰も持っていないだろ」
「……でも、私……エルにまで刃を向けてしまったんですよ」
「エルに?」
アリストは鈴音を見つめ直した。
「本当です。マルベルに煽られたとは言え、私はこの手でエルに斬りかかったんです」
そしてちらりと目が動く。
彼女の目線を辿ると、朽ちかけた机の陰に、アリストの知らない少女が倒れていた。
「あの子は?」
「ピクシー、って言ってました。セルトのマルベルの一種ですよね」
「ピクシー? 煽られたって、あの子にか?」
頷く鈴音。
「彼女の笑い声が……頭の中に響いて、どこかが壊れるような感じになって、気づいたら衝動が爆発して……」
今度はアリストが鈴音の両肩を掴んだ。
「お前、ピクシーの魔法にハマったな」
「えっ?」
「ピクシーの笑い声。イーゼルを込められた笑い声が思考を滅茶苦茶に混乱させるんだ。そこに奴らは強い暗示をかける。催眠術と似たようなものだ」
鈴音の目が丸くなる。
「じゃ、じゃあさっきの衝動は……」
「あいつに何か言われただろう? エルを殺せとか、攻撃しろとか。そのせいだ」
鈴音は突然、アリストの胸に顔を埋めた。
「なっ、鈴音」
「っ……よかった……私、最後まで壊れちゃったと思ってた……」
安堵に満ちた声で、一人呟く。シャツの胸元が嬉し涙に濡れていった。
「もう、ダメだと思った……夢は叶わないって……でも、……!」
アリストは何を言っていいか分からず、ひとまず鈴音をこのままに小屋の中を見回した。




