3章の21
「鈴音っ! 鈴音!」
腕の中で少女が、虚ろに両目を開いた。
「……え……?」
焦点の定まらない瞳はゆらゆらと揺れ、そしてゆっくりとこちらを向いた。
目を覚ましたばかりの子供のように意思の薄い瞳を、アリストは見つめ返した。
「……アリスト……様?」
「ああ。大丈夫か?」
「……おはよ……ございま……」
おぼつかない唇で言う。まだ夢から醒めきっていないようだった。
「……お茶……ミルクは? ……?」
はっ、と彼女の両目が見開かれる。そのまま弾かれたように身を起こした。
「こっ、ここは!?」
床に座り込んだまま、ものすごい勢いで辺りを見回す。
「タリアの丘の遺跡だよ。七百年前、魔法使いが住んでいた」
「……魔法使いが……」
二人は同時に同方向を向き、そして同じ物を眺めた。
壁際で首を垂れる白骨。
あれが、アリスの殺した魔法使い。
アリストの頭の中に、再び彼女の悪夢が巡る。
自らの種の過ちに気付き、涙を流し、アリスの思いに協力したいと願った〝彼〟。
死して白骨と化してもなお、彼はアリスに裏切りの懺悔を示しているのだろうか。それともあれは、自らの種の業に死後も深く苛まれ続けている姿なのだろうか。
どちらにしろ夢は事実だった。丘陵を抜け、この小屋を見つけた時からアリストはそう確信していた。
そして、この現実も。
「鈴音」
びくっ、と少女の肩が震えた。
「……」
「とにかく、お前が無事でよかった」
「…………え?」
恐る恐る振り向いた少女は、驚いた顔でこちらを見つめた。
「……驚かないんですか?」
「驚いたに決まってるだろ。こんな所で倒れてるんだ。驚かない方がおかしい」
アリストは鈴音の左腕に目を落とした。
「それに、血まで流して」
はっ、と鈴音は自分の腕を見た。
「あ……」
「それで何とか止まったみたいだけれど」
鈴音の腕には、きつく布が巻かれていた。
「これ……アリスト様が」
アラベスク模様の入ったハンカチは、滲んだ血液で黒い染みを浮かべていた。
乾ききっていない布に触れた鈴音の指が、淡く血液の色に染まる。
「それとも、ここまでの道に転がってたマルベルの死体の事を言ってるのか?」
びくりと鈴音は震えた。
彼女の血色の指を見ながら、アリストは呟くように続けた。
「お前が隠そうとしていたのは、あれだったんだな。マルベルの死体は風化が早いと言っても、一晩で消え去るのには無理がある。お前は、あの死体の山を俺に見せないために――」
ぐっと顔をしかめた。
「っ……あれだけの数を、たった一人で相手にしたんだよな、鈴音。本当にお前は……」
「狂ってるんです」
アリストは顔を上げた。
「あれが私の真実なんです。私は狂気の塊なんです」
目の前で、少女は諦めたように微笑んでいた。
「やっぱり、ダメでした。意思じゃ、心の中にある衝動には太刀打ちできませんでした」
悲しげな笑みが深さを増す。
アリストはじっと彼女を見つめた。
「抑え込めなかった……私は意思を持てたと思ったのに、衝動を制することはできませんでした。殺したくない心を掴めたと思ってたのに、この狂気はもっと深い所に滲みついてしまっていたみたいです」
下を向く瞳に涙が滲んだ。
「トーアに生まれた者としての感情は、やっぱり消えませんでした。私はどうしたってマルベルが憎い。異形が憎い。マルベルにとってはいわれなき憎悪だという事は分かっています。それでも……それでもやっぱり私は憎いんです」
ぽつりと涙の滴が床に落ちる。
「だから昨日も殺しました。皆殺しにしました。……笑いながら。そうなんです、自分が忌み嫌うモノを潰していく感覚は、耐えようも無いくらいに気持ち良かったんです!」
水滴が次々に石の床に跳ねていた。
ばっと鈴音が顔を上げた。
「これでも気づいたと思ってたんです! 私も、あなたと同じ事に気づけたと思ってたんです。死を願われるべき命なんかどこにも無いって! っ……でもっ、でも私……っ!」
涙の流れ落ちる頬が悔しげに歪む。
「っ……。……でも、やっぱり私は私でした。殺す事しかできない……殺すことしかしない、狂ったトーアの神術師でした。だから今日もここで、我を忘れて剣を――」
アリストはふっと息をついた。
「鈴音は鈴音だ。お前が別人に変わる必要なんて無い」




