3章の20
にゃー
耳元でナイトメアが鳴く。長い長い夢から、意識が現実へと舞い戻った。
「……チェシー」
エルは呟いた。
石の床に伏した視線は、黒猫よりも低い所にある。仰ぐように黒猫を見ていると、黒猫はそっと近づいて来て指を舐めた。
「ん……大丈夫だよ」
ゆっくりと起き上がる。ぼんやりとした目で見回すと、石の小屋の景色が広がった。
頭の中を流れていた夢と瓜二つの場所だった。
少し先の床では、ピクシーの少女が倒れている。イーゼルはほとんど感じない。泡を吹いて転がっている様子から、しばらく目覚めないと分かる。
「……」
すぐ傍らへ視線を落とす。
そこでは、異国の少女が身を伏していた。
何かをかき抱くような体勢で、彼女は眠っていた。その腕に抱きしめられていたのは自分だったと、エルは霞みかけた記憶を辿って思い出した。
暖かくて、安心できる腕だった。
しかし彼女の左腕を見、エルは息を呑んだ。深い刀傷は未だに血液を流し続けていた。
エルはとっさに自分の背に手を回した。
しかしその手が、天使の羽を掴むことはできなかった。
空を掻いた腕を、エルはぼんやりとしたまなざしで見た。
「あたしもう、羽無かったんだ」
ぽつりとつぶやく。
にゃぁ
「……ねぇ、チェシー。〝アリス〟は魔法使いを殺さなかったの?」
視線を正面の壁に向けた。
「あたしの代わりに、魔法使いを殺してくれなかったの?」
そこでは、一体の白骨が首を垂れていた。
ナイトメアの見せた〝過去〟が、再びエルの胸を締めた。
アリス。あたしの翼を持って行ったのなら、何で魔法使いを殺してくれなかったの。
天使の絶望を知ったくせに、何で奇跡なんか起こしたの。
――もう、許してあげて。
夢の中でしか知らない少女が、天に向かって呟いた。
――気づいた罪人は何度も涙を流したのだから。
薄雲に覆われた、暗いブルーの空を見上げながら。
「……」
エルは白骨を見つめ続けた。
まるで懺悔のような姿勢で首を垂れた、魔法使い、の、死体。
命が潰えても、未だ罪を悔いていると言うのだろうか。骨となり果てても、懺悔と言う意思を未だここで抱き続けていると言うのだろうか。
エルはゆっくりと立ち上がった。少しふらつきはしたものの、ちゃんと両足で立てた。眠っていた間に、枯れかけていたイーゼルは回復したようだ。
視線を下げ、足元を見る。
眠っている鈴音の横には、骨の色の剣が転がっていた。
……あたしの、翼。
毒を帯びた天使の骨で作られた、冷たく光る細身の剣。
エルは手を伸ばし、白い柄を握った。自分の骨で作られた剣は、驚くほど軽かった。
「……」
踵を返し、石の床を歩む。
にゃー
どこかへ導こうと言うのか、黒猫はエルの先に立って歩き始めた。
「丘に行くの?」
黒猫は振り向き、エルを見ながら長いひげを揺らした。
「いいよ。あたしもそこに行きたいから」
小屋の外に出ると、緩い風が背中にまとわりついた。




