3章の19
「……ぁっ」
ぽたり、と血液が床に落ちた。
白い刃の上を赤い筋が伝っていく。
「――はっ!」
石の床に落ちた血液を見、ピクシーの少女は笑い声を上げた。
「やったわ! 天使が死んだ! ついに復讐を遂げたのよ!」
喜び勇んで、うずくまったままの二人へと駆ける。
「さぁ、次は魔法使いたちの生き残りを――」
言葉が途切れる。
ピクシー、そしてエルの目は、血液に濡れた剣へと吸い込まれていた。
白い刃は、軌道を遮った鈴音自身の左腕に深々と埋まっていた。
「リンネ」
エルが手を伸ばした。小さな手が触れた鈴音の頬は、透明な液体に濡れていた。
涙の伝う頬を、鈴音はやさしく微笑ませた。
「……もう、大丈夫ですよ」
刃を阻んだ左腕は、早くも溢れる血液に濡れていた。剣を引き抜くと、深紅の液体は煙のようなしぶきを上げた。
からん、と剣が乾いた音を立てて床に落ちる。
自由になった右手で鈴音は、エルの頬に散った自らの血液を拭った。
「なっ、何よ! バッカじゃないの!?」
背後でピクシーの少女が罵声を上げた。
「アンタたち二人とも殺してやるわ!」
はっと振り返ると、少女はイーゼルを帯びた短刀を構えていた。
「エルっ」
鈴音はエルを抱き寄せた。
激痛が突き上げる左腕で、天使の頭を胸にかき抱いた。
「死ね!」
短刀が刃を鳴らしかけた。
それよりも早く、鈴音は土鈴を高く掲げた。
低く澄んだ音が空気の中に響いた。
有魔種のイーゼルを激震させる鈴の音。
マルベルにとって生命とも言えるイーゼルを揺さぶり破壊する。それがこの神具の力だった。
鈴音はもう一度、右手の土鈴を鳴らした。
「きゃっ、いっいやああああああ!」
がらんっ、と短刀が床に落ちる。
少女の手が耳をふさぎかけた。
もう、無駄ですよ。
鈴音は冷静に判断した。
その通り、彼女の両腕は耳をふさぐ願いを叶えられないまま虚空に停止した。
「あぁぁぁぁぁぁあああああ」
壊れた楽器のような音を叫びながら、直立した身体ががくがくと震えた。
鈴音はそちらを見ながら、ぎゅっとエルを抱きしめた。
力の抜けかけた左腕でエルを抱え、胸と手の平で耳をふさいでいた。
耐えて。お願い守らせて。
殺さないでいいと、また今日も気づいたから。
体の感覚は淡く霞みつつあった。
靄の掛かりかけた視界で、ピクシーの少女が身を崩す。
どっと体が倒れたのを確認すると、鈴音は土鈴をゆっくりと下ろした。
小屋の中の空気はまだ、鈴の音の余韻に揺れていた。
これが消えるまでは……
これが消えるまではまだ、この子を抱きしめていないと。
エル、と淡く呟いた。
遠のいていく意識に、この名を初めて紡いだ時が映し出される。
エル。エンジェルのエル。私が付けた名前なのに、ちゃんと呼べないのは悔しいなぁ。
目が覚めたら、もう一度呼びますからね。そうしたら、ちゃんと返事してくださいね。
そしてエルも呼び返してくださいね。鈴音、って。
波が凪ぐように、小屋の中の空気が止まる。
静穏を取り戻した空気は、不思議なくらいに澄み渡っていた。
朽ちかけた小屋の中はまるで凪の水面のように、降り注ぐ光に静かに照らされていた。
遠くで鳴った猫の声を、閉じた意識の中に聞いた者はいなかった。




