3章の14
「……本当に効くんだ」
「奇跡の水なんです」
かがんだまま少女はこちらを仰いだ。
「あのワンダーワーカーがもたらした水だとも言われています」
少し誇らしげに言い、微笑んだ。
アリス=ザ=ワンダーワーカー……
ネイバンにもたらされた奇跡は、歴史書のどこにも載っていなかった。
「町ごとに違う奇跡の経路が、ワンダーワーカーの伝説を混乱させていたんだな」
呟くと、アリストは改めて少女へ頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「いいえ……私たちこそ、流れ聞いた噂を信じて失礼な態度を取ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」
少女は桶を抱えたまま立ち上がって、アリストよりも深く頭を下げた。
「あの、もしよろしかったら、お連れの方にもお詫びを伝えてもらえませんか? 昨日、失礼なことを言ってしまって……」
アリストの頭の中に、さっと鈴音の姿が映し出された。
「……わかった。伝えておくよ」
彼女が頷くのを確認すると、アリストは手を挙げて背を返した。
足を踏み出しかけて振り向く。
「一つ教えてほしいんだ。この辺に石造りの小屋みたいな建物はある?」
「小屋ですか?」
「ああ。作られた時代は随分前の建物だ。木の家が多いネイバンには珍しいけれど、きっと近くにあると思う」
そこが行くべき所だった。
七百年前に在った石造りの小屋。アリスはそこで、魔法使いの少年を殺した。味方だと信じていた彼を殺した。
そして一人、丘に登って天使の羽を撒いた。
ネイバンの伝説にある〝天使の羽が撒かれたタリアの丘〟がこの近くならば、この小屋もきっとそばにあるはずだ。
少女はしばらく目を宙に泳がせていたが、
「もしかして、あの遺跡の事かも」
「遺跡?」
「はい、タリアの丘の麓にある遺跡の事だと思います。何世紀も前の建物でいつ崩れるか分からないし、丘の一帯はそもそもマルベルが多いから町の皆もあまり行きませんけれど」
少女の指が丘の一部を指差す。
「あちらに真っ直ぐ行けば高い丘があります。それがタリアの丘です。遺跡はそこよりもう少し先にあります」
なだらかな丘陵の中に頭一つ飛び出た丘があった。そこがタリアの丘だろう。
「わかった。本当にありがとう」
アリストは礼を言い、歩みを始めた。途中、随分遠くに吹っ飛ばされていた黒眼鏡を拾い上げる。
それを両目に掛けかけた時、突然右目に鈍い痛みが走った。
「っつ」
呻き、右目を押さえた。
――ペンデュラムが痛みを感じたんだ。
どくっ、と心臓が跳ね上がった。
「……っ」
アリストは黒眼鏡を掛けると、地を蹴って走り出した。
通用口のような小さな街門をくぐると、そこからは緑の牧草地が広がっていた。
鈴音は来るなと言ったけれど、甘んじて待つ事なんてできない。
「お前がどんな理由を付けようと、俺は納得しないからな」
姿を消した少女へ言い、そして走り出した。
アリストの行く先には、鈴音が隠そうとした景色が広がっていた。
しかし黒眼鏡越しの視界では、まだ、点在する彼女の狂気に気付くことができなかった。




