3章の12
雲の影が覆いかぶさっている。
空は晴れているのに、ここだけは曇り空だ。千切れ雲の一つがちょうど太陽を覆い隠し、自分の周りだけを狭い影の中に落としている。
「くそ……」
アリストは何度目かもわからない悪態を吐いた。
相変わらずイーゼルを縛られた体はほとんど自由がきかなかった。辛うじて喉は自由になりつつあるが、四肢は未だに言う事を聞かない。
ここに貼りついている今も、鈴音はマルベルとの戦いに身を賭しているのかもしれない。そして鈴音を追いかけて行ったエルも、その身を危険にさらされているかもしれない。
仮説ばかりが頭を覆う。
そしてそれを追いかけ、この現状への憤りと焦燥感が駆け廻っていく。
……ただ、俺に何ができる。
行った所で何が成せる。武器も無いなら、鈴音の足を引っ張るのは目に見えている。
それでも、行かないという選択肢を受け入れる事はできなかった。
ここで一人安穏に待つ事こそが、最たる罪であるという認識は変わらなかった。
「……誰か」
喉が縛りの中で必死に震える。
「誰か来てくれ!」
天に向かって叫びを突き上げた。
さぁっ、と、陽の光がよみがえった。
動いた雲の輪郭から、太陽の明るい光がこぼれ落ちてくる。まるで暗闇の払われた未来が、空の彼方に映し出されているようだった。
――手を、伸ばしたい。この手を伸ばして、あの光のような時を掴み取りたい。
闇で塗りつぶすべき時の訪れはまだ早すぎる。そうじゃないのか、鈴音。
「……クラット様?」
突然かかった声に、アリストははっと息を呑んだ。
「あ、あの……クラット様です……よね?」
驚きと怯えの混じった声が聞こえて来る。何とか目をそちらに向けると、一人の少女が驚いた顔でこちらを見ていた。
「どうしてこんな所に……」
見覚えがある顔とお下げは、昨日のパブにいた給仕の少女だ。
アリストはこれとない好機を確信した。
「……ちょっと事情があるんだ。ところで、頼みたいことがあるんだけど……」
びくっ、と少女は身を縮こませた。
「この札を取ってほしいんだ」
「ふ……札ですか?」
少女は身を引きかけながら問い返した。頷くアリスト。
「俺の肩に貼りついている、この小さな紙だ」
目をそちらに動かして示して見たが、黒眼鏡越しではうまく伝わらないだろうか。
しかし少女は、びくつきながらも足を踏み出してくれた。
ほっと安堵の息が漏れる。
……でも、何でここまで恐々とするんだろうか。
あまりに遅い少女の歩みに焦燥感を煽られるが、ぐっと我慢して待った。
「これ、ですか?」
少女の手が札へと伸びた。
「は、はがしますよ……」
恐る恐る札をつまみ、そして息をつくと、一気に引きはがした。
その瞬間、札から光が発散した。
「ぅわっ!」
「きゃあっ!」
強烈な衝撃に体が弾き飛ばされた。
浮き上がった体は地面を擦りながら吹っ飛び、木の柵にぶつかった。バキバキと音を立てて木がひしゃげ、アリストの体はそこで受け止められた。
「っつ……」
「いたた……」
少女の声に顔を上げる。
「だっ、大丈夫か?」
慌てて立ち上がりかけたが、突然がくりと身体が傾いた。
右足に力が入らない。
「は、はい何ともありません……」
少女はアリストの真反対に吹っ飛ばされていた。軽く地面を擦っただけで済んだらしい、腰のあたりをさすりながら立ち上がった。
「あの、クラット様こそ大丈夫ですか……?」
ひしゃげた柵の前で身を崩したアリストへ、心配そうに近づいた。
少女が息を呑んだ。
「っ!」
アリストは自分の右足から少女へと視線を上げた。真ん丸に見開いた目が、アリストの目をまっすぐ射ぬいていた。
はっと気が付き、自分の顔に手をやった。
――眼鏡が無い。




