3章の6
「なっ!?」
バランスを崩し転倒する。
わけがわからず混乱するアリストの元へ、草履の足音が近づいた。
「ごめんなさい。ホントはここまでやるつもりなんて無かったんですよ」
見上げる空を鈴音が遮る。
「お前っ……」
「大丈夫です。ほんの軽い術ですから、少し経てば自由になりますよ」
鈴音はアリストの肩を指差しながら言った。
やられた。B&Bで肩を叩かれた時、何かの神具を付けられたに違いない。
「何でここまで……拒むんだよ」
アリストは喉を精一杯動かして問うた。
鈴音は背を屈めると、
「拒んでほしくないからですよ」
微笑みながらそう答えた。
「術が切れても、追わないでください、アリスト様。尊かったあの日と今までを守るために、終わりだけ塗りつぶさせてくださいね」
そしてすっと手を伸ばした。
彼女が掴んだのは、アリストの右手にあるペンデュラムだった。
「っ……」
「借りていきます。アリスト様の目、大事に使いますから安心してください」
立ち上がり、踵を返す。二三歩ゆるやかに歩くと、一呼吸置き、砂を蹴って走り出した。
遠ざかっていく緋色を横目に見ながら、アリストは成す術も無く地面に転がっていた。
拒んでほしくない――?
鈴音の言葉が幾重にも反芻される。
思い出にしてください、ってまるで別れの言葉みたいじゃないか。もしかして、これが終わったらトーアに帰るつもりなのか?
そんな事があるか。勝手で急すぎるだろ。
「く……そっ」
精一杯力を入れるが、イーゼルを縛られた体は身じろぎほども動かなかった。
元々のイーゼルの強度が弱い分、体全体を縛り付ける度合いは少ないはずだが、何せ術を掛けたのがあの鈴音だ。おまけにいつ術が切れるかも分からない。
せめて肩に付けられた神具が外れてくれれば。
目だけを動かして左肩を窺うと、そこには小さな札が貼り付いていた。トーアの文字なのだろう、全く読めないが、これが神術の基部である事は確かだ。
手を擡げようと奮闘するが、全くらちが明かない。
「何で寝てるの?」
平坦な声が飛び込んできた。
はっと我に返ると、視界にエルが大写しになった。
「朝ごはん、食べちゃったよ」
「エルっ」
「リンネは? リンネ、さっき魔法使ったよ」
鈴音の神術の気配を感知してここまで来たらしい。
「それが……一人で……骨を探しに……どこかは」
「わかんないの?」
首を傾げるエル。
「アリストの目で探せばいいのに」
ペンデュラムの事を言っている。アリストは情けない笑みを返した。
「それも鈴音に……持って行かれた」
するとエルはぴくりと表情を動かした。
「……アリストの大事な目なのに」
小さな手が伸びてくる。黒眼鏡が外され、じっと右目に視線が注がれた。
色を無くした瞳を見て、天使の少女は何を考えているのか。アリストが戸惑っているうちに、エルは黒眼鏡を戻してぱっと立ち上がった。
「あたし取り返してくる」
「えっ」
早くも少女は踵を返していた。
「たぶん、あっち。あたしがアリストの目を取り返してくる」
そう言うと、エルは一度も振り返らないまま走り出してしまった。
「エ、エルっ……この札をっ」
にゃー
はっと横を見ると、黒猫が覗き込んでいた。
「チェシー、お前でもいいから」
しかし黒猫はひげを揺らすと、エルの後を追いかけて行ってしまった。
「なっ……ああ」
一人残されたアリスト。不服が突きかける喉も半分ふさがっていた。
大人しく待つしかないのか?
ここでただ、疑問と空虚な決意と一緒に寝転がっているしかないのか……?
千切れ雲の浮かぶ空を、半ば投げやりな気持ちで眺め続けた。




