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3章の1

 そして籐の籠が、軽い音を立てて床に落ちた。

 石の床の上で軽く跳ね、横倒しになって着地する。ふわりと舞った白い羽は、何倍も長い時間をかけて籠の周りに散らばった。

 半開きになった籠の蓋の隙間から、淡雪のような白がこぼれていた。

「っ……っ」

 少女は両腕に力を込めて、手中の物を眼前の体にねじこんだ。

「か……がはっ」

 彼の吐き出した血液が、彼女の肩に飛び散った。

 後にワンダーワーカーと呼ばれる少女が、初めて死を帯びる血液に触れた瞬間だった。

 剣の柄を握りしめた両手が暖かい血液に濡れていく。彼女は更に刃を深くねじ込んだ。

「あ……アリス……っ……ぅあ!」

 彼女の下で彼は、増幅した激痛にのたうった。

「……っ。最低だわ……あなたも結局〝魔法使い〟だったのよ」

 少女は吐き捨てるように言った。

「ご……っ……誤解だ」

「違うわ!」

「っ!!」

 顔を歪めた少年を、少女は大声で罵倒した。

「協力してくれるって言ったのに! やっぱりあなた、自分以外を救う気持ちなんてこれっぽっちも無かったんじゃない!」

 悲嘆と怒りが、更に刃へ圧力を加えた。

「ちがっ……あああ!」

 びくびく痙攣する彼の内部。裂け目に埋まった指先が感じていた。

 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

「……あなたたち魔法使いが疫病を予知して……身を守るために羽を集めたのが全ての始まりだったのよ。天使の事なんか全然考えずに、自分勝手な理由だけで! 羽を毟られた天使たちがどういう気持ちだったか、考えた事はある? 何の罪も無いのにあなたたちに捕まえられて、一人残らず羽をむしり取られたのよ!」

 ナイトメアが知らせた事実が頭の中によみがえる。

 やわらかな羽毛を失った翼。無理やり羽をむしり取られたせいで、翼の肉はズタズタに裂け、無残に腐り落ちた。

 天使たちの背に残ったのは、細い骨となり果てた翼の骸。

 悪夢だった。

 慰霊塔に眠った天使が見てきた〝事実〟はまさに悪夢だった。

「全てに絶望して、全てを憎悪した天使が毒を撒いたのも、世界がその報いを受けるのも当然だわ。あなたたちが視たこの今は、あなたたち自身が招いた悪夢なのよ!」

 ――そしてあなたは、それに気づいた罪人つみびとだと思っていたのに。

 彼女は絞り出すようにそう呟いた。

 自分たちが犯した罪を罪と自覚して、償いたいと思ってくれた。

 マルベルなのに、人間の私に協力したいと言ってくれた。

 魔法使いが道を誤ったせいで、セルト全ての生命が呪いを受ける事になった。未来見で見た悪夢の原因は不安に翻弄された自分たちだった。魔法使いと言う種の罪は悔いても悔い切れない。だからもし、自分に償う資格があるのならば、世界に羽を撒こうと言ったきみの手伝いをしたい。そのためなら例え同種の命を狩る武器を作っても構わない。天使の骨は、羽と対照に強い毒を帯びているから、人間のきみが持っても魔法使いのイーゼルを砕くことができる。最高の剣を作ってみせる。それで自分の罪を洗ってほしいとは言わない。この意思を示す術として、きみに使ってもらえればいい。

 奇跡を起こすのはきみだ。最初に世界の全てを救うのは、きみだ。

「……ア……リス」

「そう言ったじゃない!」

 涙声で少女は叫んだ。

「でもあなたは羽を隠し持っていたわ。何よ。何が罪よ、償いよ! 高みから見下ろしながら、一体何が償えるって言うの。自分の身を守ったまま言っていいセリフじゃないわ!」

 声を荒げて叫べば、体に負った数多の傷が痛んだ。

 彼に突き刺した刃を握る腕も、もはや限界寸前だった。魔法使い相手に何度重ねたか分からない激闘に、彼女の身体は悲鳴を上げかけていた。

 殺す事さえ厭わなければ、羽の奪還はもっと容易かった――彼女は今まさにそれを痛感していた。

 自分の道のために何かの命を奪うのは間違っている。何かを遂げるために誰かの死を願う資格なんて、誰も持っていない。だから彼女は殺さなかった。例え自分がどれほど傷を受けようと、誰かの命を奪う事だけはしなかった。

 したくないと思っていた。

「……何も殺さないって決めたのに」

 震える声が握りしめた剣に伝う。

「そう願うべき時は絶対に来ないって信じてたのに!」

 ずっ

 鈍い音がして、両腕の抵抗が一瞬途切れる。

 直後、刃の切っ先が固い物に突き立ったのを感じた。

 アリス

 彼の唇が耳元で動いた。

 俺はこれ以上の悪夢を見たくなかったんだ。

 風が収束するように、彼の声は緩く消え入った。

「……悪夢よ……これも」

 少女はしばらくの間、刃を握りしめていた。

 まるで彼を抱きしめるような体勢で、血だまりの中にうずくまっていた。

 とくん、とくんと感じていた彼の鼓動が、細く細く小さくなり、消えた。

 命の事切れに意識を呼び戻され、彼女は剣の柄から手を離した。剣は彼を串刺しにしたまま、石壁に突き立っていた。

 かくりと首を垂れ、床を見つめる彼。まるで深い懺悔を示した姿勢のように見えた。

「何が奇跡よ……」

 溢れ続ける涙を強く拭う。そのわずかな挙動にも、全身は痛みを訴えて止まなかった。

 もう、限界。

 また涙が滲み始めた。

 体も、それに心も――自分の全部がひどく痛んでいる。

 全てを忘れて眠ってしまいたい。

 大切な何かを失った絶望を、全て投げ出して眠ってしまいたい。

 にゃー

「っ」

 びくっ、と彼女は身じろいだ。

 振り返ると、木の扉の隙間から黒猫がこちらを覗き込んでいた。

「……チェシー」

 飼い猫の変わらない鳴き声に、淡く微笑みを浮かべた。

 黒猫が宝石のような瞳を逸らす。追うと、そこにはひっくり返った籐の籠があった。

「……そうね……私にはやらなきゃいけないことがある」

 籠に駆け寄る黒猫。少女も足を進めると、こぼれた天使の羽を集めて籠に入れ直した。

「綺麗な羽よね……。天使の翼を覆っていたんだもの。太陽や月、夕焼けや青空の光をいっぱいに浴びたから、こんなに綺麗な色をしているのよ」

 一枚の羽を眺め、目を細める。

「ただの白じゃないわ。いろんな色が混じってできた白。流れていく時間と一緒に移っていく空を、全部詰め込んだ色」

 黒猫がふわりと舞った羽に手を伸ばす。小さな腕を何度か振るが、揺れる空気に煽られて、羽はいつまでも宙に浮かび続けた。

 少女は声を上げて笑った。

「あははは。遊んじゃダメよ、チェシー」

 ふわりと浮きあがった羽をぱっと掴む。すると黒猫は「そうだね」と言うように、満足げな顔つきで鳴いた。

 にゃぁ

「……ありがとう」

 少女はふらつきながら立ち上がると、籐の籠を持って扉を開いた。

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