2章の18
凪いだと思った夜風が、また緩く吹き始めた。
冷気を帯びた初春の空気が一方向に流れていく。闇から来た空気が月明かりの丘陵の上を滑り、再び闇に帰って行く。
満月の下、緩やかに波打つ丘は、駆けていく空気の輝きに彩られている。
その麓に立ちながら、少女は淡い鼓動を自覚していた。
満月の丘。
なんて綺麗なんだろう。
だから何故あなたたちは、憎悪でここを塗りつぶそうとするの?
「……」
一歩ずつ丘の斜面を登る。
体に刺さる無数のイーゼルが、一歩進むごとに強くなっていくのを確信した。
「いいんですよ」
鈴音は素知らぬ顔で言った。瞳は変わらず丘の頂にむけたまま、独り言のように続けた。
「いいんですよ? 遠慮なくかかってきても」
その瞬間、溢れる憎悪が一気に丘を駆けた。
ばしゅ
荒縄が跳びかかってきた生物の首を打っていた。
ずっ
反対側では眉間に破魔矢が突き立っていた。
ばちん
縄の鞭が翅を叩き落とした。
ぎち
数珠玉が眼球に食い込んだ。
どっ
小刀が肩の肉に埋まった。
びちっ
破魔矢が鼻先を打った。
べきっ
荒縄が乱杭歯をへし折った。
月明かりの中を、鈴音は一人で歩み進んだ。
辿った道の両脇には、イーゼルを縛られ昏倒したマルベルの体が転がった。
「何がそんなに、憎いんですか?」
こぼした問いに答える者は無く、嬌声を上げて鈴音に跳びかかり、一瞬の勝負に敗北を喫し倒れていく。
有魔の異形――ヒトと相対する性質の化け物たち。
『彼らは狩るべき相手だから、狩るの』
『忌むべき相手だから、忌むの』
『これは運命が決めた結論だから、抗わずに従うの』
トーアの神術師の思想が、心の深い所で熱を放ちながら呼びかけてくる。
「……ああ、この景色まで奪うんですか」
正面から跳びかかってきたマルベルの横っ面へ、鈴音は無表情に小刀を埋めた。
そこから一気に刃を滑らせ、反対側の頬へと突き抜けた。
ぎゃああ
ぱくりと割れた顔の切れ目から、再び満月が姿を現した。
何か綺麗なものを見ていないと、気持ちのタガが外れてしまう。必死に押さえつけている感情が全身から飛び出してしまう。
あの人に願われるまでは、殺さないと決めた。
この今、彼はきっと願わない。いや、願うかもしれないけれど、心の中は激しい自責にかき乱されるに違いない。
だから殺しません。
ふっ、と鈴音はため息をついた。
いつの間にか、足は丘の頂を踏んでいた。
この一瞬後に、斜面に転がるマルベルの命を全て奪う事も容易かった。ほんの少し、神具に送る意思を変えればいいだけの事だ。
しかしそうする意味も無い。
意味も無いと、己の決意が教えている。
きゃらきゃらきゃら
「!」
耳を突いた甲高い笑い声。鈴音はばっと振り返った。




