2章の16
揺れる薄いカーテンが、まるで波のような音を紡ぎ出す。
さぁぁぁ
まどろみに入りかけた意識の中に、夜風の奏でる波音が優しく響き渡る。
最後に見たのはいつだろうか、閉じた瞼の裏側に海原の景色が映し出された。
セルト東端の海岸。にぎやかな港町を抜け、建物の間に見えるきらめきを目指して走れば、そこには広大な青の原が広がっていた。
静かに波打つ水面。岸壁に当たって跳ねる水のしぶきが波止場の足元を濡らす。
鮮やかな青色の水面を辿れば、今しがたまで視界の半分も無かった水平線が、いつの間にか景色の真ん中に横たわっていた。
途切れること無く描かれた、空と海との境界。
ああまで明白に分かたれた世界は無いだろう。
混じることの無い空と海。同じ青色を抱きながら、一度足りと溶け合わない二つの景色。
いつか空が崩れたら。もしくは海が天まで波を擡げたら。
そんな時は絶対に訪れない。
霞がたわむれに境界をぼやけさせても、荒波が気まぐれに曇り空をかすめても、ほんの少し風が流れれば、境界は再び二つの青の真ん中に横たわる。
こんな風に、生命の世界もまた質を越え触れ合う事は許されない。せめて今の静穏が崩れないよう、ぎりぎりの均衡を保ちながら互いを監視し合っている。
――それでも青は染みるように青い。
見つめ続ければいつか、二つの青は境界線を越えて混ざり合うと思えるほどに。
さぁぁぁ
晴天の空は徐々に色彩を移し始めた。
西の夕陽が空に火を放ち、空の青を燃やし始めた。海はその色を冷酷に見つめながら、深く暗い藍色に落ちていく。
しばらくすれば、夜闇が全てを混沌の中へと沈める。そしてまた朝が来て、分かたれた姿の景色が静かに互いを見つめ合う。
二つの生命の間にある絶対的な溝も、きっと同じに違いない。
……かなしいの?
え?
ふと振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
見慣れない、しかしとても綺麗な服。その長く広い袖が風にはためいていた。
同い年くらいの少女は、海を指差して言った。
あっちにはわたしの国があるんだよ。だからそんな目でじーっと見ちゃイヤ。〝とーあ〟のみんなも悲しくなっちゃうじゃない。
少々怒った声音と顔で、そう訴えてきた。
とおくを見るのなら、もっと笑ってよ。あなたが笑ってみんなも笑う方がいいでしょ?
……
先に笑みを広げる少女につられて、固く結んでいた唇がゆるんだ。
波止場に吹き付ける夕暮れの風が、少女の服の袖を巻き上げていく。
まるで天使みたいだ。風にはためく異国の服を見ながらそう思った。
ねぇ、この風はどこから来たのかなぁ。
嬉しそうに尋ねる声は、きっと初めから答えを知っていたに違いない。
この時少女が何と教えたのか、不思議と全く覚えていない。これほどまでに鮮烈な記憶であると言うのに、この一部分だけがあやふやになっている。
幼い日の、他愛も無い言葉。
ただこのやり取りが、後の自分の思想に大きな影響を与えた事は確かだった。
遠い所を見るのなら、もっと笑っていてほしい。
見下ろす場所に立つのならば、それだけの責任を自覚しなければならない。
だから俺は探しているんだ。
その道しるべにできるのなら、犠牲だって払ってみせる。
さぁぁぁぁぁ
カーテンの衣擦れが少しだけ大きくなる。アリストはベッドの中で小さく身じろいだ。
静かに右手を擡げると、手の平で自分の右目を押さえ、そして言った。




