2章の15
「ったあ!」
すぐ傍らで弾けた悲鳴はなぜか、嬉しげな達成感に満ちていた。
「いたた……エル、大丈夫ですか!?」
はっとエルは顔を上げる。
自分の体の下で、鈴音が頭を押さえて苦笑していた。
「アリスト様みたいに上手くはいかなかったですね。頭をぶつけちゃいました」
落ちてくる天使をかばうため、体を滑り込ませたのだろう。彼女の全身は土埃にまみれていた。
「……」
「さ、早い所片づけちゃいましょうか」
エルは示されるがまま鈴音の上から下りた。
鈴音は素早く立ち上がると、ぱんぱんと着物の土埃を払い、闇へと目線を擡げた。
彼女の冷静な瞳の先では、破魔矢によって動きを止めたマルベルが苦しげに呻いていた。
「かなり大きなマルベルですね」
「り……リンネ」
「あっ。やっと呼んでくれましたね」
鈴音は軽く振り返り、エルに微笑みかけた。
「私の名前、鈴の音って言う意味なんですよ」
エル、とつなげると、鈴音は唐突に「耳をふさいでください」と言った。
「み……みみ?」
頷く鈴音。エルはよくわからないまま自分の両耳をふさいだ。
聴覚が消える。
続けて、鈴音の着物の袖が揺れるのが見えた。
みわっ
「!?」
空気が違和感に満ちる。思わず膝が砕け、しりもちをついた。
まるで自分を取り巻く空気が暴れているような感覚だった。
胸元に何かが飛び込んでくる。黒猫だ。ローブの中に入り、必死に耳を押し付けてくる。エルは肘で黒猫の耳をふさいでやった。
目前で凄まじい魔法が繰り広げられている。少女の後ろ姿を見ながら、エルはそう察する事しかできなかった。
そしてその時間も長くは無かった。むしろ、ほんの数秒の出来事だった。
急速にイーゼルが静穏を取り戻す。
視界に袴が翻った。
目を上げると、鈴音の口が「もう大丈夫ですよ」と動いた。次いで耳を指差す。
「……」
エルはゆっくりと耳から手を離した。空気を覆う違和感は嘘のように消え去っていた。
か細いイーゼルが遠ざかっていく。エルは鈴音の向こう側へ顔をのぞかせた。
逃げ去るマルベルの影。四足を繰り、必死にこの場を離れていく。
鈴音はマルベルがいた辺りまで歩むと、そこに落ちていた破魔矢を拾い上げた。
「ああ、やっぱり壊れちゃいましたね。私のイーゼルも反応するから仕方ないか」
破魔矢が、彼女の手の中でぱきりと割れた。
「ご苦労様です」
徐々にひび割れ崩れていく破魔矢。ボロボロに砕けた破片は夜風にのり、緩やかな速度でどこかへと運ばれて行った。
エルはぼんやりと、その様を見ていた。
風が破魔矢の亡骸を全て持ち去ると、鈴音はこちらを向いた。
「さあ、戻りましょう。アリスト様が待ってますよ」
「!」
頭の中に問いがよみがえってくる。エルは弾かれたように立ち上がった。
――魔法使い
「あっ。あはは、こんな所に葉っぱがついてます」
不意の笑いに、エルは虚を突かれて言葉を呑んだ。
「どこから来たんでしょうかね。風はどこからでも吹いてきますからねー……」
鈴音はエルの頭の上に乗った木の葉をつまむと、緩く吹く風の中にそれを放った。
「風は世界中を繋いでます。不思議な所に降りついても、また風が吹けば、いつか元の場所に戻れるかもしれませんね」
月夜の闇へと呟きながら、鈴音はさらさら揺れる髪をかき上げた。
「……リンネ」
「何ですか?」
エルは異国の少女の、遠くを見つめる瞳の中へ問うた。
「魔法使いは、死んだの?」
静寂が、月光に響いた。
〝魔法使いは死んだの?〟
「……」
振り返った鈴音はやはり、優しく微笑んでいた。
「魔法使いなんてもう、どこにもいませんよ」




