2章の10
「あっ、あんた!? くくくく」
「はぁ? 何言ってるんだい」
女主人が首を傾げる。
「くっ、クラット家の人なのか!?」
店内に響く素っ頓狂な声。
「クラット?」
問い返したのは、アリストのすぐ隣にいた客だった。
「領主一族の名だろ? おやっさん、いきなりどうしたんだよ」
酒が入っているからか、客はおかしそうに笑った。
しかしアリストを見つめる主人の顔は強張って真っ青になっていた。
震える腕で外を指し示す。
「ばっ、馬車に紋章があった! 確かにクラット家の馬車なんだ。あんた、クラット家から来た人なのか!?」
うっかりしていた。アリストは心の内で舌打ちした。
再びざわざわと色めき立つ店内。
「もしかして、領主の長男の?」
「うわっ、マジかよ」
ひそひそ声が四方で交わされる。
勝手なざわめきの中に「あれが〝あの〟」というフレーズが嫌に耳についた。
〝あの〟? どういう意味だ?
アリストは店内の異様なまでのざわめきを浴びながらも、主人の元へ歩もうとした。
女主人の叱咤が飛ぶ。
「アンタ! 領主様のご子息の手を煩わすんじゃないよ! 早いとこ馬車を繋げて来ておやりよ!」
「あ、ああ!」
主人は弾かれたように回れ右して扉の外へ消えた。
「別にそこまで……」
「いえいえ、いいんですよ」
打って変わって猫なで声に変わる女主人。
「さあ、何でも注文してくださいな。こんな場末の店の料理じゃ、お口に合わないでしょうがねぇ」
アリストは不本意ながらも踵を返すと、鈴音たちのテーブルへと戻った。
「……どうしちゃったんですか?」
「俺の注意不足だった。今まで気を付けてたんだけどな」
椅子に腰かけ、ふぅとため息をつく。
貴族は畏れられてこその存在。民衆の畏怖は当然の事だ。父は事あるごとにそう言っていたが、アリスト自身は常々、もっと通じ合ってもいいのではと思っていた。
もちろん、領地を守る者として畏れを抱いてもらえるのなら本望だ。強きワーカーの存在があってこそ、領地の平和は保たれる。
しかし自分は違う。畏れ敬われるのは現領主の父だけで十分だ。
それなのに人々は一族の者と知るだけでがらりと態度を変える。今まで気さくに話をしていたのに、不意に口が滑った瞬間から関係が崩壊したことは数えきれない。
――それにしても、ネイバンのこれは異常じゃないか?
アリストはぐるりと店内を見回した。
騒々しいざわつきは無くなったが、異様な雰囲気が立ち込めているのは否めない。端の方のテーブルでは未だにひそひそと囁き合っている。
「……」
「どっ、どうぞ! クラット様!」
ずいっ、と目の前をグラスが覆う。
給仕の少女が、半ば怯えながら巨大なビアグラスを差し出していた。もちろん、中に入っているのはパブで定番のビールだ。
酒は気分じゃないな、と思ったが、断れば少女は泣き出してしまいそうだ。
「ありがとう」
精一杯微笑みながらグラスを受け取ると、さりげなく鈴音の方に回そうとした。
「あ、私は紅茶をお願いします。ハウスブレンドか、無ければアールグレイで!」
先手を打たれる。それならエルは、と目を向けかけたが、鈴音がすかさず「二つ!」とつなげた。どうやらこの大量のビール、一人で飲まなければならないようだ。
鈴音は続けて数種の食事をオーダーした。少女は「はいっ、はいっ」と人形のように首肯を繰り返し、注文が途切れた所でぱっと礼をして踵を返した。
「あっ、それからB&Bの……」
逃げるように去っていく少女。泊まれる所を訊こうとしたが、叶わなかった。
「この町で何かしたんですかー? アリスト様」
鈴音がなじるように問うてくる。おかしそうに笑っている目に「濡れ衣だ」と返すと、
「泊まる所があるか訊いてくる。料理が来たら先に食べててくれ」
そう言って再び席を立った。店員の少女も女主人も裏に引っ込んでしまって見当たらない。
馬車を繋ぎに行ってくれた主人に訊くしかない。好奇なのか何なのか分からない人々の視線を浴びながら、アリストはパブの外へと出て行った。




