プロローグの2
樅の林から、黒い影がぴょこんと飛び出した。
「チェシー。もう、どこに行くの?」
続いて梢をくぐったのは、一人の少女。長い事追いかけてきた黒猫が芝生の上で足を止めると、彼女はやっと安堵の息をついた。
黒猫は首をめぐらせ、じっと少女を見つめている。
「さあ、気が済んだのなら早く帰るわよ。ただでさえこの辺は危険なんだから」
戒める言葉を掛けながら辺りを見回した。
「こんな状況なんだもの。森のマルベル達が何をしてくるか分からないわ。最近どこかの村が、疫病への恐怖で気が立ったマルベルに襲われたらしいのよ」
厳しい表情に、少しだけ悔しげな色を織り交ぜる。
「不治の病……このグランジェ地方から始まった疫病に、今やセルト全域がやられつつあるわ。人間の私もマルベルのチェシーも、感染したら助かる方法は無い。だから、取り返しのつかない事になる前に町に戻りましょう」
有魔の生物である飼い猫に手を差し伸べるが、しかし黒猫は金の瞳を一度しばたたかせると、ふいっと首を逸らしてしまった。
「あっ、こら」
たたっ、と黒い体が軽やかに駆けていく。
緑の芝生を走る漆黒を追いかけると、先に建物があるのに気付いた。
「昔の慰霊堂まで来ちゃってたのね」
石造りの小さな建物は、数十年前に役割を終えた死者の弔いの堂だった。
小さい頃に見た記憶を辿りながら、少女は視線を擡げた。
「!」
信じられない光景に息を呑む。尖り屋根に立つ十字架に、人の体が突き刺さっていた。
いや、人ではないようだ。
「……天使」
天に晒された背中からは、十字架の先端の他に、二本の骨が突き出ていた。
「羽が無い……でも、あの姿は確かに天使よ」
――もしかして、誰かに羽を毟られてしまったの?
にゃー
黒猫の鳴き声ではっと我に返る。
「そっ、そうよね。下ろしてあげないと」
急いで入口へと駆ける。がらんどうの堂内を抜け、階段から屋根の上へと出た。
十字の先端で串刺しにされた体を持ち上げる。初めて触れる天使の体は信じられないほど軽かった。
その時、突如吹き付けた強風に足をさらわれた。
「きゃあっ!」
天使を抱えたまま、少女は屋根から滑り落ちた。
バリバリバリっ
「――っつ!」
幸い、二つの体は慰霊堂を囲む植込みの上に着地した。
赤い屋根から黒猫がひょこりと顔を出す。飼い主の少女は眼下の植込みの中に横たわっていた。
骨翼の天使は、彼女の腕の中で目を閉じたままだった。
黒猫はじっと、気を失ってしまった少女を見つめた。
……にゃー
金の瞳が宝石のように輝く。
その瞬間。遠くへ行った少女の意識の中に、とあるビジョンが鮮やかに浮かび上がった。
この時ナイトメアの見せた夢が、後の奇跡の引き金となる。
しかし真相は誰にも暴かれないまま、華々しい伝説の中に眠り続けた。