2章の8
森を抜けたら、道の両脇は見渡す限りの牧草地に変わった。丘の起伏か滑らかに続いている。思い出したように現れる藪が、黄昏の暗がりに深い影を添える。
そして遮るものの無い宵空は、信じられないほどに澄み渡っていた。
じき完全に夜が空を覆う。漆黒を広げた夜空は、数多の星座に飾られるに違いない。
人家の多いフォルドでは叶わない景色だ。アリストはぽつりぽつりと姿を現し始めた星々を目に思う。
セルト公国は島国であり、国土の大半が森林と野原に覆われている。中には荒野と言うしかない、寂寞とした土を広げた地域もあるが、それは北部の一部だけだ。ここグランジェ地方は東部の中ほどに位置していて、その西側半分がクラット家の領地に当たる。領地は完全に内陸に位置し、そのためアリストが海を見た経験はほんの数回しかなかった。
「こんなに空が広いと、ご来光も綺麗に見えそうですねー」
鈴音が嬉しそうな声で言った。それにエルが首を傾げる。
「ごらいこー?」
「日の出の事ですよ。ほら、この辺はあんまり家が無いから地平線が見えてるじゃないですか。そこから出てくる朝日、きっとすごく綺麗ですよ」
「真東はちょうど森じゃないか?」
「えぇ、そんな。森なら見えないじゃないですか……。どこか高い所に登らないと」
「それなら鉱山にでも登ってみるか?」
冗談半分に言ったアリストだったが、
「いいですね! 早起きして皆で登りましょうよ」
鈴音は意気揚々と腕まくりをする。
「お山の上でアーリーティー、すごくステキですね! 今晩から準備しないと」
アリストは慌てて待ったをかけた。
「鈴音、本気にするなよ。鉱山ってのは登るための山じゃないだろ。それにネイバンで採れる鉱石は少々毒気があるって話だ。そんな山で茶なんて飲んでる場合か」
「どっ、毒ですか!」
身じろぐ鈴音だったが、ふと気が付いたように首を傾げる。
「そんな石、どうやって掘るんですか?」
「さあな……でも鉱毒の死者はこれまで一度も報告されていない。町の人間は昔からここに住んでるから、自然と耐性ができたんじゃないか?」
この不思議な矛盾については、アリストも詳しい事は知らなかった。
「とにかく、土地の人間でも無い俺たちが気安く登っていい山じゃないって事だ。日の出はその辺の丘で見ればいい」
「アリスト様が先に言ったんじゃないですか!」
鈴音が頬を膨らませる。
そうこうしているうちに、馬車は町の随分近くまで来ていた。
街門が見えてくる。夜の訪問者は皆無が前提なのだろう、門に灯りは灯っていなかった。月明かりの中におぼろげにネイバンの文字が浮かび上がっている。
木製の古びた街門をくぐると、先には整備された広い道が続いていた。町の本通りなのだろう、両脇にはずらりと建物が並び、灯りがこぼれている。道に面して掲げられた看板には、日用品や食料を売る店、パブやレストランであることを示す絵が記されていた。
木の板を合わせペンキで塗装した建物も、フォルドではまず見ない。かなり簡素な印象だが、それもこの町の雰囲気には似合っているように感じた。
「B&Bはありますかねー」
鈴音がきょろきょろと看板を見回す。
ネイバンにゲストハウスは期待できないだろう、とアリストも思っていた。小さな町なら、ベッドと朝食を提供してくれるB&Bがあるだけで十分だ。
にぎやかな笑い声が聞こえて来る。馬車を止めて窓を覗き込むと、中ではビアグラスを手にした人々が楽しそうに笑っていた。
看板を見ると、パブであると示してある。