2章の3
ばさりとエルのローブが翻った。
直後、馬車の側方で何かの衝撃が弾け合った。
「え?」
遅れてアリストと鈴音が顔を向ける。
素知らぬ顔で座っているエルの髪が、風の残圧に緩く収束する所だった。
「……エル?」
眉を寄せるアリストの視界の端を、矢絣袴が翻った。
つられて振り向いた、瞬間。
すぐ先で凄まじい破裂音と衝撃が弾けた。
「ぅわっ!」
弾けたイーゼルの圧力がアリストの体を引き倒そうとする。
「……っ、鈴音!?」
アリストは御者席にしがみつきながら叫んだ。
風圧の中心にいる鈴音は、神術の姿勢を保ったまま前を睨み付けていた。
手には白い紙を付けた太い縄。少女はそれを、鞭のように相手に打ち付けていた。
トーアの神具に打たれたマルベル――巨大な蛇は抵抗していたが、幾ばくも無いうちにズシンと地面に叩き付けられた。
「蛇型のマルベル、ヴァイパーですね?」
鈴音がこちらを見ないまま問うた。
「そうですよねっ、アリスト様!?」
「……あっ、ああ」
アリストはしどろもどろになりながら肯定した。
「しかしこの辺でヴァイパーの被害が出たなんて……」
鈴音はひらりと馬車を下りた。草履の足が気絶したヴァイパーの横に着地する。
「まだいます。イーゼルが不吉に揺らいでる……あと一匹。ううん、二匹」
林の闇を睨み付けながら、ぐっと荒縄を構えた。
不穏な空気を捉えたのか、再び馬が暴れ出した。アリストも馭者席を降りると、手綱を引いて馬をなだめた。
「落ち着け、大丈夫だ」
馬車の向こうで衝撃が弾ける。はっ、とアリストは息を呑んだ。
鈴音だ。見ると、彼女は音も無く滑り込んだヴァイパーの頭部に荒縄を叩き込んでいた。
イーゼルで体を巨大化させた蛇は、縄の下で苦しげに歯を剥いた。刃のように鋭い牙が鈴音の腕を捉えようと蠢くが、しかし鈴音の強大なイーゼルを振り払う事は叶わなかった。
ズシン!
蛇の体が地面に叩き付けられ、動かなくなった。
ふっ、と鈴音の吐息が聞こえる。
静けさが舞い戻っていた。
しかし林に漂う空気が、未だ緊張を解かせてくれなかった。
アリストは奥歯を噛みしめた。
イーゼルが騒いでいるのは感じる。しかし強さや数、ましてやその主の居場所などは全く分からない。無魔である人間はそれで当然だった。魔法を使えるワーカーとて、マルベル並みにイーゼルを感知できる者はそうそう居ない。
だから鈴音は天才と呼んでいい。
「……」
目を上げると、馬車の上ではエルがじっと座っていた。マルベルの少女はこんな事態など慣れっこなのか、半目の瞳で平然と前を見ていた。
不意に何かに気付いたように瞳が動く。
ばさっ、とローブの下から骨の翼が飛び出す。
しかしその白い輪郭がしなる前に、少女の頬が小さな音を立てて弾けた。
白い頬に赤い筋が走る。遅れて、血液の飛沫が飛び散った。
「――っ」
エルが息を呑んだのをアリストは見た。
にゃあ にゃぁっ
少女の膝の上の黒猫が何かを訴えようと鳴いた。
「伏せてっ!」
鈴音が叫んだ。