2章の2
アリストは芝生を歩み始めた。塔の影を出て、まっすぐに馬車へと戻る。
馬車の上では、鈴音が不思議な顔でこちらをうかがっていた。目が合うと、ぱっと顔を逸らして、何故かバスケットの中を探り始めた。
「お帰りなさい。えと、お手洗いの後はこれを」
鈴音が遠慮がちに濡れ布巾を差し出した。
「…………ありがとう、鈴音」
しばらく複雑な気持ちに浸った後、アリストは布巾を受け取って高速で手を拭った。
とんだ勘違いをされていたようだが、問い詰められるよりはましだ。
馭者席に乗り込むと、行き先を告げないまま馬車を発車させた。
「アリスト様?」
後ろから鈴音が声をかける。しかしアリストは返事を返さなかった。
無言で黒眼鏡を押し上げる後姿を見ていた鈴音は、眉をひそめると、エルの方へ目を移した。エルの膝の上には黒猫が乗ったままだ。
「何怒ってるんですか」
アリストの背へなじる。
「未来の領主様が、猫ちゃんやお出かけの事でいちいち怒ってどうするんですか。ねぇ、エル」
「……」
「エル?」
エルはアリストの背をじーっと見つめるだけだった。
「もぉ。道中のおしゃべりもお出かけの醍醐味だと思いますけどねー」
なじるように言ったが、アリストもエルも無言のまま前を向いているだけだった。
鈴音が不満そうな顔で唇をつぐむと、それきり馬車の上の会話は途絶えてしまった。
鈴音は流れていく景色へとまなざしを向けた。
馬車が駆けるのは森の中。細い土の道を、時折ガタガタと揺れながら走り抜ける。
手を伸ばせば届きそうな距離に並ぶ樅の幹たち。無数に林立する茶色と緑は、昼下がりの今でも輪郭がおぼろげで、光の乏しい奥の方は全て繋がって見えた。
――こんな景色の中には、必ず有魔の瞳が隠れている。
そんな場所へ、安に足を踏み入れてはいけない。古からの教えはトーアもセルトも同じだった。
人は無意識に有魔の生物を恐れる。力ある者は一瞬で相手の質を見極め応じるが、そうでない者たちにとって、彼らの存在は恐怖以外の何物でもなかった。
だから、有魔と無魔は共存できない。
それがトーアの民の結論だった。
極東の地の人間はマルベルと決別し、ただ一つの結論の元に戦いの日々を選んだ。
全ての有魔を狩るまで、トーアは眠れない。極東の国の上に静穏は訪れない。
――西の世界は違ったのに。
「……」
鈴音は森の奥を見つめながら、一人回顧に落ちていた。
幼い日に見た西の国は、静かな景色に溢れていた。血も悲鳴も無いのは誰も戦わないからだ。共存までは至らなかったが、それでも人々が日々安心して暮らしている事に驚いた。
何で、ここはこんなに優しいんだろう。
答えてくれた少年は、今考えれば自らの苦悶を押し殺して説いてくれたに違いない。
「……アリスト様」
視線を擡げた先には、黒いマントに覆われた背中。
手を引いて歩いてくれたあの日は自分と変わらない大きさだと思っていたのに、今こうして見れば、離れていた十年と言う時間の厚さがしみじみと実感できた。
鈴音が切なげに目を瞬いた、その時。
馬車がいきなり方向を変えた。
「えっ」
三叉路を通過した所だった。行きに通ってきた道が遠ざかっていく。
「どこに行くんですか! こっちは来た道じゃないですよ!?」
鈴音の焦った声が背に掛かるが、アリストは無視して馬車を走らせた。
「……さっき魔法を使った」
エルの一言が一瞬で空気を塗り替えた。アリストは息をのみ、思わず馬車を急停止しそうになった。
「魔法って! あっ、ダウズしたんですね!」
鈴音が立ち上がってマントを引っ張った。
「や、止めろ苦しい!」
「ずるいですよ! 私にはダメって言ったくせに、自分の寄り道は堂々とするんですか!」
耳元でがなり立てられる。
「わかった分かったから放してくれ!」
「ズルする人は、どうやっても人の上には立てないんですよ!?」
手綱が滅茶苦茶になり、ついに馬が暴れ出す。
ガタンガタンと揺れる馬車の上で、エルと黒猫が揃ってため息をついた。
その時。
「っ」
エルと黒猫は同時にそれを察した。