1章の9
「エルですよ。この子の名前!」
「どういう意味なんだよ」
「天使のエルです!」
スクリプトを空に描きながら、何の捻りも無いネーミングに誇らしげに胸を張る。
「何ですかアリスト様。トーア流の名前を付けた方が良かったですか?」
「だとしたらどんな名になる?」
「そうですね……天子ちゃん。あ、この字だと王様って意味になっちゃう」
「てんこ?」
間の抜けた響きだ。アリストは即座に却下を言い渡そうとした。すると、
「テンコはへん。あたしエルの方がいい」
アリストは驚いて天使を振り向いた。
半目気味の目が鈴音を見、そしてアリストを見た。
幼い顔は変わらず無表情だった。
「エル」
アリストは呟いた。初めて呼ばれた新しい名に、天使――エルが小さく首を傾ける。
鈴音が満足げに腕を組んだ。
「やっぱり、いい名前じゃないですか」
振り向いたエルに、鈴音は自分の紹介を加えた。
「私は鈴音。極東の国トーアから、セルトの魔法を学びに来た留学生です。二か月前からこのアリスト様のお宅にお世話になってます」
鈴音は自分の胸に手を当てた。
「特技はトーア流の魔法・神術全般です。神術をもっと極めるためにセルトに留学したんですけど、この国は魔法以上に楽しい事もたくさんありますね。たとえば……あっ!」
驚愕の表情を見せた鈴音に、アリストはその場で身構えた。
「どうしたんだ」
「っ……もうこんな時間じゃないですか! イレブンジズの時間が終わっちゃう!」
鈴音は慌てて踵を返すと、袴の裾を振り乱しながら木立の元へと駆けた。
「続きはお茶をしながらにしましょう!」
バスケットを探り、取り出したシートをばさっと広げる。
「お前なぁ、呑気に茶なんて飲んでる場合か?」
「だってアリスト様、エルを連れて帰るって決めちゃったんでしょー? それなら、この辺で一息ついたっていいじゃないですか」
アリストの突っ込みにも構わず、さっさと十一時のティータイムの準備を始める鈴音だった。
この異邦人はどれだけセルトの文化を気に入ってしまったのか。アリストは呆れてため息をついた。一日五回のティータイムを全てこなす奴は、今となってはセルト人でさえ珍しい。貴族の家に住まう上での〝おたしなみ〟として教えたのだが、過去の自分を少々後悔せざるを得なかった。
その時。アリストの隣で「くー」と変わった音が立った。
えっ、と首をめぐらせると、そこではエルが腹を押さえて立っていた。
「……もしかして、腹減ってるのか?」
「うん」
こくりと首肯。これを皮切りに、エルの腹が「くーくー」と空腹を訴え始めた。
これはもう、仕方が無い。
「じゃあ、イレブンジズにするか」
すると待っていたように、エルが翼をしならせた。
ふわりと身体が浮き、アリストの目の高さを滑っていった。
「……」
ちょこん、と鈴音の隣に身を収める。待ってました、と鈴音がポットからお茶を注ぎ始めた。シートの上には既にミルクとクッキー、そして鈴音特製のお握りが並んでいる。
「……ミルクティーの横に握り飯を並べるセンス、セルト人には斬新すぎるぞ」
「アリスト様ー、早く来て下さいよー」
鈴音が手を振って呼ぶ。その隣では早速、エルがお握りを頬張っていた。
「ああ、わかってる」
アリストは手を振り返すと、歩みを少しだけ早くした。
「……」
足をお茶会の場に向かわせながら、しかし頭の中では全く別の事を考えていた。
さあ、どうやって隠し続けるか。
これから先、どう隠せばエルの憎悪からこの地を守り抜けるのか。
アリストは視線を下げた。
魔法使いが今も生きていると知ったら、エルは何をするだろうか。
凄まじいイーゼルを帯び、意のままに風を操ると言われたマルベル・天使。
この平和な時代に甦った天使は、ある意味で爆弾なのかもしれなかった。エルが怒りにまかせて力を暴走させれば、この地にどれ程の被害を生じるか分かったものではない。
とにかく、自分の一族が統治するこの地方を荒野にされる事だけは、何としても避けなければならなかった。
魔具は手に入らなかった上に、次を探すのも当分お預けか――
不意に足元から鳴き声が聞こえる。
にゃー
「お前か」
目を落とすと、エルの棺の上にいた黒猫がこちらを仰いでいた。
日差しの中、金色の瞳は宝石のような輝きを帯びていた。
にゃー
「わかってるよ。エルの棺を開けたのは俺さ。その責任は取る。それまで自分の目的は後回しだ」
すると猫は不敵に笑んだ。――アリストにはそう見えた。
「何だよ。お前は何か知ってるって言うのか?」
黒猫は一つまばたきを返すと、何も答えないまま踵を返した。そして当然のように、鈴音たちの元へと歩んでいった。
美しい黒猫の登場に鈴音が「きゃー!」と悲鳴を上げる。
「呑気な奴だ……」
一人重たい仕事を抱えながら、アリストは平和なティータイムの輪へと歩みを進めた。