1章の8
「……」
アリストは首肯を返した。
「ああ。魔法使いは〝全滅した〟」
えっ、と顔を上げる鈴音。堂々と虚言を吐いたアリストへ怪訝な表情を送った。
「疫病から七百年経った今のセルト公国に、魔法使いは一人も居ない。だから安心していい。お前にとって生きていてほしくないマルベルはもう滅びたんだ」
ほ、と天使の雰囲気が緩んだのを感じた。
「アリスト様――」
「放してやってくれ、鈴音」
説明無しに切り上げ、鈴音は少し不服そうな顔をしたが、言われた通り天使を放してくれた。
小さな天使は、解放された後もその場にじっと立っていた。
「……私からも質問して良いですか」
小さく挙手する鈴音。緩慢に振り返った天使へ、遠慮がちに問うた。
「この翼……どうしたんですか?」
細い骨だけの、しかもたった一本しかない翼を指差す。
「何でここだけ骨に……しかも、一本だけしか無くなっちゃったんですか?」
えっ、と天使が身じろぎする。
「いっ……ぽん?」
背へ首を巡らせる。一つしかない己の翼に初めて気づいたのか、息を呑む音が聞こえた。
何か来るか、とアリストは身構えた。
だが、警戒は杞憂に終わった。
「……知らない。でも、もういい」
天使は力が抜けたようにため息をついた。
「全部終わったなら、もう羽なんかなくていい。みんなみんな、無くなってもいいの」
軽く俯けた顔には、とても淡かったが、確かな微笑みが浮かんでいた。達成感と虚無感。二つの感覚が入り混じった笑みに思えた。
みんなみんな、無くなってもいい――。まるで、このまま命をも手放してしまいそうな言い草だった。
アリストは改めて天使を見た。
「お前、名前は?」
少し間があった後、天使は驚いたようにアリストを見上げた。
「な……まえ?」
「そうだ。これから何て呼べばいいか分からないから教えてくれないか」
「これからって、やっぱり連れて帰る気なんですか?」
割って入って来ようとする鈴音だったが、アリストは天使の回答を待った。
「……なまえ……」
天使は幾ばくかの沈黙の後、
「忘れた」
さらりと答えた。
「忘れたって、自分の名前だぞ……普通忘れるか? まぁ……七百年も眠ってたせいか」
長命種ならこんな事もあるのかもしれない、と無理やり納得する。
「それなら呼び名を作ろう。鈴音、お前何か考えてくれ」
「えっ、何かって。いきなり言わないでくださいよ!」
「頼む。俺じゃろくなのしか思いつかないんだよ」
すると鈴音は、口を尖らせながらも考え始めてくれた。
「えー。名前ねぇ……」
「……何で名前なんかいるの?」
天使がアリストへ問うた。
「お前、これから行く先があるのか?」
天使はしばらく口をつぐんだ後、ふるふると首を振った。
「ない。やることはもう終わったから、どこにも行かなくていい」
「それなら、俺たちと一緒に来ないか。せっかく目を覚ましたんだ。この七百年間でお前の負った何かが終わったのなら、今から別の事を始めても誰も文句は言わないだろう?」
天使の表情が不思議な動きをした。
「……え」
「まぁ、来たくないからいいんだ。ただ俺にはお前を起こした責任がある。後始末はきちんとさせてほしいんだ」
天使はやはり、不思議な表情でアリストを仰いでいる。
薄い唇が開きかけた。その時だった。
「エル!」
はっ? とアリストと天使は見つめ合ったまま同じ顔をした。