プロローグの1
黄昏を背景に、少女は飛ぶ。
朱く焼けた空の中を緩やかな速度で通り抜ける。西空を覆う夕陽の残光が、彼女の幼い横顔を淡く照らしていた。
虚ろな両目は何を見ているのか。
背中から突き出た二本の骨がしなる。
それは羽ばたく音も失くした、天使の翼のなれの果てだった。
かつては純白の羽を纏っていた少女の翼。黄昏の中を飛べば見事な陽色に染まっていた。その時の面影はひとひらたりと残っていない。骨の固い輪郭に落ちた影が、細い背の上で単調に揺れていた。
ただ、少女は何も気にしていなかった。
嘆いてもいなかった。
憐れな翼の姿も、そして孤独も。広大な空をぽつねんと飛びながら、ただ醒めたまなざしで前を見つめ続けていた。
そう、自分が最後の生き残りだと知っていても、少女は涙の一粒も流さなかった。
両腕で抱いた籐の籠から、さらさらと光がこぼれていく。
籠の中の粒子は、背の骨と素性を同じにしながら、不思議と澄んだ輝きに満ちていた。空に放たれた瞬間から光を纏い、夕風の中をきらきらと躍った。
それはさながら祝福の光だった。
空気の中へ、輝く粒子は拡散していく。風に舞う光を、少女はためらいなく吸い込んだ。
死の感覚は全く無かった。
ざぁっ
風が空気を切り裂いていく。吹き付けた強い風が、籠に残った粒子を大きく巻き上げた。
少女はふと背後を振り返った。
「……」
朱色に霞む景色が広がっていた。
切り立つ山の峰も、緩やかな丘の稜線も、点在する湖も。
生い茂る樅の林も、石造りの家々も、細長い街道も、道端の花も。全てにこの時の色彩が滲んでいた。
――黄昏の空は澄み渡っていた。
少なくともそう見えた。例え毒を撒いたと知っていても、そう思えた。
再び骨をしならせる。光の粒を抱いた空気が不安定に揺れた。
中身を無くした籠を放り出す。
これで、自分の役割は終わりだった。
揚力を纏った骨を繰り、後は思うままに空を駆けた。
どこへ行こうと構わない。待つ者はもう居ないのだから。
この世界のどこにも居ないのだから。
無言の思考にはただ事実が響いていた。
果たすべき責務を終えた今、これから何をしようと自分の勝手だった。
何もする気は無かった。
どこかで静かに眠りたかった。
穏やかな眠気がやって来る。それが吸い込んだ毒のせいだと気づいた頃、地上の景色はかなり近くまで迫っていた。
ふと擡げた視界に赤い屋根が映る。
小ぢんまりした建物だ。尖り屋根の上には、死者を悼む場所の証が据えられている。
少女は吸い寄せられるように、十字架の方へと進んだ。瞬くたびに重くなっていく瞼。潰れていく視界に合わせて、小さな体もふらふらと揺れた。
「……眠い」
眠りたい。永遠に眠りたい。
もうすぐやってくる報復の時間を待つ気は無かった。
みんな勝手に終わればいい。この眠りの向こう側で、何もかもが終わればいい。
翼に残っていた最後の揚力が途切れ、少女の体は墜落した。
十字架の真上へと吸い込まれながら、ふと、この形には奇跡を乞う意味がある事を思い出した。
奇跡が起こるのなら、綺麗な頃へ帰りたかった。
空も翼も世界も、全てが綺麗だった頃へ帰りたかった。
願うだけ無駄な奇跡を紡ぎ終えると同時に、少女の意識はぷつりと切れた。
最後の天使の最期はこうして、誰にも知られずに幕を閉じた。