第一話「日雇い」3
「お疲れ様」
用意されていた瓶全てがなくなると、先程の者に声を掛けられた。だけれどそこに労いの意は全く以て感じられない。
「無事に生きていられたんだね」
やや意外そうに言ってくるのに対し、せとなは何てことのないように答えた。
「魔族でも人間を襲うのは極一部だろ?それに此所にこうやって足を運ぶ時点で理性のある者だし、そもそもそんな心配はいらない」
せとなの答えに相手はふうん、と小さく頷いた。
「結構詳しいんだね」
「子供のときから暮らしてるからな」
「それでも理解のない人間は知ろうとしないよ」
それもそうだろうと思ったが、決してせとなが魔族に対して理解を持っているというわけではない。単に、それが当たり前の世界だと思っているし、嫌でも知ることが出来る。それだけのことだ。
「はい、じゃあ、これが今日の分。来週また同じ仕事があるんだけど、どうする?」
吸血種族への血液の配給は週に一回と決められている。それだけあれば一応は足りるらしいが、それには個人差はある。余裕で保てる者もいれば、足りない者もいる。そしてそれとは他に、直に人間から吸血することを好む者もいるのだ。
「あ、やらせて下さい」
それまでは他の日雇いでどうにか繋いで、また来週来ればいい。定期的に決まった収入があるというのは有り難いことだ。
「わかった。じゃあまた、来週此所に来て」
短い説明が終わり、せとなが金を受け取ろうとしたタイミングで嫌な足音が聞こえた。革靴の底をわざと鳴らしているような歩き方。せとなは急いで金を受け取り、じゃあ、とその場を立ち去ろうとしたが、敢えなくそれは失敗を遂げた。
「お、せとなの声がすると思ったら、本当にいた」
低い声が辺りに響く。せとなはその声に無視を決め込み、また来週来ます、とだけ告げて足早にその場を抜けようとした。だが、低い声の主はそれを許さずに、がっちりとせとなの男にしては細い肩を掴んだ。
「なーに、逃げようとしてんだ」
いかにも柄の悪い男。それはにやにやと笑みを浮かべながら、せとなの肩を掴む手に力を入れた。短い銀髪はほぼオールバックに撫で付けられ、奇抜で目が痛くなるような光彩のシャツ。首から下げられた金武のネックレス。そして目付きは限りなく悪いうえに、糸目。何処からどう見てもやのつく自由業にしか見えない男だ。
「いや、急いでるんで」
せとなはそれだけ言い、肩に置かれた手を払うが男は負けじとまた掴んでくる。
「え、何、越後さん知り合いなの?」
「あれ、久岐には話したことなかったか」
二人の会話で今日仕事の説明をしてくれた者が久岐という名前だとせとなは初めて知った。そんな久岐に越後と呼ばれた男はまだせとなの肩を強く掴んでいる。
「うん、聞いてないね」
久岐は逃げようともがいているせとなのことなどお構い無しに越後と会話を続けているし、越後もせとなの様子を物ともせずに肩から手を離すことをしない。
「樋原せとなって言って、俺の知り合い」
越後は適当過ぎる説明を口にした。
「知り合いなんかじゃねぇよ。ただ、ちょっと知ってるだけだ」
せとなはそれに反抗するように声を大きくする。
「え?それって知り合いって言わない?だって、知ってる関係なんでしょ?だったら知り合いだよね。全く知らない相手なら否定するのもわかるけど、知ってるわけでしょ?それなら知り合いだよ。もし否定するなら、もっと別の言葉にしないと……」
「うるせぇよ。わかったよ、知り合いだ」
またあの久岐の延々と続く言葉を聞かされるのだと思うとせとなはうんざりした気分になり、そう叫んだ。すると久岐は満足そうに頷く。そして越後はまだ、せとなの肩を掴んだまま。
「そうそう。俺の可愛い知り合いだ」
何故か越後まで満足そうに頷く。
「まだ日雇いで食い繋いでるのか?うちで働けばいいって何度も言ってるのに」
越後はふう、と大袈裟な溜め息を吐き出す。少し伏し目になると元々細い目は更に細くなり、もう黒目は見えない。
「お前の世話になんかもうなりたくねぇんだよ」
せとなは無理矢理肩から越後の手を退かして返した。
「強がっちゃって。うちで面倒見てやるよ」
越後はそれでもどうにかせとなの肩を掴もうと必死だ。何故そんなことにこんなにも必死になるのかせとなには理解し難かったが、越後というのはそういう性格で、無意味なことに必死になる男なのだ。それが悪魔という種族の特性なのか、それとも単に越後がそういう性格なだけなのかは不明だが。
「もう、てことは以前世話になったことがあるの?」
久岐が僅かに首を傾げながら言う。大きな瞳がきょろきょろと動いている。せとなとしては否定したいところだったが、またあの長科白を聞かされると思うとうんざりするので素直に肯定することにしておいた。
「昔……もう、あれは何年前だったか」
越後──せとなは彼のフルネームを知らなかった──が、わざとらしく目を細めた。
「そう、あれは十年以上は前のこと」
十年以上前、まだこの区域はきちんと確立していなかった頃の話だ。まだ、魔族を受け入れられず排除しようとする人間、そんな人間を疎む魔族。両方の戦いにも似た攻防が繰り広げられていた頃。
「一人でぽつんといる、まだ子供だったこいつを見付けたんだ」
越後は懐かしそうに言う。せとなは不意にそのときのことを思い出した。行く宛もなく、食糧もなく、寝るところもなく、ただぼんやりと立ってい。魔族に取って喰われるならそれでもいいとさえ思っていた。なのに、魔族は自分を喰らうことはしてくれなかったのだ。目の前で、母親を食べ尽くす鬼でさえも、自分を手にかけることはしなかった。
「で、詳しく聞けば、鬼に母親を食べられた、ということだった」
越後はかせとなの了承も得ずに久岐に勝手に深い過去を話していく。とはいえ、こんなことは格段珍しい話でもなかった。魔族と人間の争いでは、双方、かなりの数が犠牲になったのだ。親を喰われたり殺されたりしたのは何も人間だけではない。数多の人間の子供と魔族の子供が孤児となった。たんに、せとなもそのなかの一人というだけの話だ。
「鬼、てまた稀だね」
久岐はふうん、と頷いてから言う。そう、鬼の出現は稀なのだ。鬼自体、正式な魔族かどうか不明なところらしく、そして、彼ら鬼は人間を食べるということ以外、何の特徴もない。人狼のように獣耳があるわけでもないし、吸血種族のように八重歯が尖り、色白なわけでもなく、悪魔のように真紅の瞳をしているわけでもない。そう思ってからせとなは久岐の目を見た。彼の目は薄い赤で、それが純血の悪魔でないことを示している。それに反して越後は美しいまでの真紅の双眸をしている。
鬼は人間と相違のない見た目をしていて、ただ、人を喰らう。そこに意味があるのかどうかもわからない。そして、魔族の方も鬼を恐れているのだ。何故なら、得体が知れないから。人間から見れば魔族も得体の知れない存在に変わりはないのだが、魔族からすればそうではないらしい。
そして、そんなふうに不明瞭な生き物に、せとなは母親を喰われたのだ。そして、孤児となり行き場をなくしたせとなを拾ったのが越後だったというわけだ。
その後、かなりの期間、せとなは越後と共に過ごした。だが、一年程前、自立出来るようになるとせとなは越後の棲み家を出た。一人で生きていくことを決めたのだ。
越後のことが嫌いなわけではない。強いて言えば苦手に分類されるが、それは越後がせとなに惜しみ無い愛情を与えてくるからだ。赤の他人。種族さえ違う。何の繋がりもない。そんな相手に我が子同様に可愛がられることがせとなにはむず痒かった。嫌ではない。ただ、頼っていてはいけないと思ったのだ。
だけれど越後はそれを寂しく感じているのか、どうにかしてせとなを自分の元に戻そうとしているのだ。せとなはそうならないように、出来るだけ越後を避けて生活をしているのだが、この狭い区域、全く顔を合わせないようにするというのは至難の技であり、達成出来るものでもなかった。
越後は久岐に自分とせとなの馴れ初めを話終えると、またせとなの肩を掴んだ。
「ほら、日雇いなんかで食い繋いでるから、こんなに痩せて」
越後はせとなの鎖骨に指を這わせて言う。悪魔は年を取らないのか、越後の見た目は出会ったときと寸分違わないように見える。
「うちの仕事を手伝えばいいんだよ。そうしたら、寝るところだって、食い物だってある。給料だって支払うよ」
それじゃあ、育ててもらっていたときと何も変わらない。せとなはそう思い、俯いた。
「意地張らないで戻れば?」
それに久岐が言う。確かに、せとなは意地を張っているだけなのだろう。それでも譲れないものもあると思う。しかしそれと同時に今の生活に限界を感じているのも事実だった。
「…………」
せとなは口を閉ざし、ちらりと越後の顔を見た。そこでは越後が満面の笑みを浮かべている。これはどうしても戻ってきて欲しい顔なのだろう。せとなは短い時間のなかで様々な想いを巡らせた。
「……わかった。戻るよ」
越後には返し切れない程の恩がある。ならば、もう少しくらい、彼のしたい家族ごっこのようなものに付き合ってもいいのかもしれない。せとなはそう思って頷いた。すると、越後は忽ち(たちま)嬉しそうな顔を作る。ただでさえ細い目は、真紅の瞳が見えなくなる程に細められた。
「よし、今日はパーティーだ」
越後はそう言うと、久岐にもついてくるように指示をした。せとなはそれに呆れた溜め息を吐きながらも、仕方のない父親を見るような気分になった。