第一話「日雇い」1
空が眩しい。
こんな天気は久し振りかもしれない、と樋原せとなは目を細めた。そもそも、空を見る余裕もなかったのだ。そして気が向いて空を見上げれば何時も曇っていた。
今日だって別に気分が晴れているから空を見上げたわけではない。冬にしては暑いから見上げたみただけ。そうしたら、空高く太陽が燦々と輝いていたのだ。
──サングラスとか欲しいけど、似合わないだろうな。
せとなは太陽を刹那凝視しただけで痛みを感じる目を擦りながら考えた。
──てか、サングラスを買う金もない。
ジーンズのポケットに入った小銭を握り締めて取り出す。大した金額ではないどころの話ではない。所持金ゼロに近い。これでは、今日の夕食を口にしたら終わってしまう。
今日の日雇いのアルバイトで幾ら貰えるだろうか。明日からの仕事は決まっていないから、最低三日分の食費は欲しい。となると、幾ら貰えれば食っていけるか。
──千円あれば上等か?
せとなは一日幾ら使えるか考えながら道を歩く。一日三百円と少し。一食百円と少し。いやいや、それはない。寧ろ、千円しか貰えないバイトとは如何なものか。
金銭感覚が麻痺しているのか、日当千円などという考えが浮かんでしまった頭をせとなは振った。それよりゼロが一つ多いことはまずないだろうが、最低その五倍は貰えるだろう。何せ、東京都の現在の最低賃金は時給八百四十円と少しのはず。
──まて、これがそこで通用するのか。それはあくまで、東京都の話だ。此処は東京都ではない。正確に言えば、東京都だった場所。いや、それも違う。一応、東京都の一角。一角だが、東京都ではない。
──取り敢えず、行ってみるしかないか。
せとなは金色に染めた髪をがしがしと掻きながら足を進めた。夕べ、似合いますよー、なんて言われながら無理矢理染髪された色はまだせとなには馴染んでいない。
だけれど、空色の瞳にはその光る金色はよく映えている。
「はーい、日雇いの方は此方ですよー」
がやがやとしたテントを見付け、いそいそと近付くと、耳鳴りがしそうな程に高い声が耳に飛び込んできた。
「こっちでーす」
きーん、と耳の奥が痛くなるような声。だけれど、自分が今日、日雇いのアルバイトをするのはこの場所。ということは、この耳が痛くなるような声は自分への金への案内に他ならない。
「はいはーい」
大勢の者達。決して身長の高い方ではないせとなはその中を掻い潜るようにして声の方に進んでいく。
──なんで、人外ってどいつもこいうもでかいんだ。
低身長をコンプレックスに持つせとなは若干の苛立ちを覚えながらも進む。ぎりぎり百六十センチ。十八歳の男子にしては些か小さく思えなくもないが、彼の成長期はとうの昔に過ぎ、ここ二年程は一センチも伸びていない。
せとなはその身長にコンプレックスを抱き、意味のない行動だと理解しながらも毎朝牛乳を飲む習慣を続けていた。その習慣を続ける為にも金が必要なのだ。
人混み──のようなものを潜り抜けた先では真っ黒の、何とも形容し難い服を身に纏った者がいた。黒いせーたーのようなものはサイズが見るからに合っておらず、たぼついている。その裾は上半身どころか膝まである。それにまたまた真っ黒のパンツ。それはスリムなタイプのものでその人物の足の細さがよく目立つ。
──悪魔とかなのか。
悪魔は好んでよく黒や真っ赤な服を身に付けている。それにどんな意味があるのかはせとなにはよくわからなかった。
「日雇いの方ー?」
その人物が──いや、人間とは限らないのだが、せとなの挙手を見て顔を覗き込んできた。声から想像するに、もっと小柄だと思っていたがせとなより二十センチ近くは背が高そうだ。尤もそれは踵が高めになっているこれまた黒いブーツの分を差し引いて。
「そうっす」
せとなはぺこりと頭を下げた。
「じゃ、こっち来て」
端整な顔がついてくるように手招きをした。柔らかそうな栗色の髪に、大きな藍色の瞳。肌の色は雪のように白く、まるで陶器のように滑らかだ。顔も頭も小さい。手足の長さは微妙な服のせいでよくわからないが、体型としては痩せ型のようだ。
「はい」
せとなは相手を観察しながらもその後をついていく。ボブスタイルのような髪型の向こうに小さな耳が見え、そこには大きな兎のピアスがついている。目の赤い、白兎。
「日当は一万円。簡単な仕事だから破格の金額だよ」
その言葉にせとなは心の中でガッツポーズをした。予想を上回る日当に、簡単な仕事。日雇いの仕事は毎日色々なものが募集されるのだが、内容も日当もそのときにならなければわからないものが多いのだ。昨日も一昨日も見付けた日当はとてもではないが出来る仕事ではなく、説明の途中で引き返した。その前の仕事は簡単だったが日当が三千円しか貰えなかった。そんなこんなで、せとなは今、一文無しに近い状態なのだ。
「ここでーす」
連れていかれたのは古い建物で、此処は裏口のようだった。表側に白く大きなテントが張られていて、それはまるで献血を要請する場所のようだった。
「本日の仕事は吸血種族への血の配給です。これね、この瓶」
相手は牛乳瓶と同じサイズのものを持ち上げたが、中身は白い液体ではなく、真っ赤なもの。勿論それが血であろうことは言われなくとも一目瞭然な程だ。
赤血球がまるでそこで蠢いているかのような見事な赤。きちんと栓がされているようで臭いは気にならない。
「一人につき、一瓶。それ以上は与えないように。でも、欲しがる奴もいるから気を付けて。君は……」
相手はそう言ってせとなに顔を近付けてきた。ずい、と整った顔が眼前に来るものだからせとなはついたじろいでしまう。相手はそれを気にする素振りも見せずに、すんすんと鼻を鳴らしてせとなの匂いを嗅いでいるようだった。
「うん、人間の匂いがする」
相手は漸く顔を離して言った。
「ということは、気を付けてね。法律で吸血行動は禁止されているとはいえ、されているが故に常に彼ら吸血種族は餓えている。なかには餓えに負けて見境なく襲ってくるものもいるかもしれないから。でも、この仕事は人間向きなんだよね。理由は簡単。人間でもないとこんな日雇いに集まってくれないから。だって、君達の言葉でいう人外はお金に困ってないし、働く必要もないからね。だから、日雇いしてくれるのなんて人間くらいなの。日当の良さと簡単な仕事、ていうのに割りと人間は集まってくれるんだけど、内容を話した途端にやっぱりやめます、て宣言して逃げていくほうが多いんだよね。なんで?だって、どんな仕事もやってみなくちゃわからないでしょ?もしかしたら、無事に帰れるかもしれない。襲われるかも、ていう可能性の話だし、なんなら自分の身は自分で守ればいいだけの話じゃないの?それとも、人間はそんなことも出来ないくらい非力なわけ?そんなんでそもそも生きていけるの?あ、生きていけないから、こんなことになってるんだっけ?あ、それともそれはまた別の話?よくわかんないな。人間て弱腰っていうかさ、なんていうのかな、逃げ癖付いてるっていうの?こんな世の中になったのだって、君達人間が人外に立ち向かう気もなかったからでしょ?だから、こんな区域が出来ちゃったわけじゃない?」
──いつまで続くのだろう。
せとなは若干うんざりしながら相手の話が終わるのをひたすら待ってみようと思った。お喋り、とはまた違う。ただ、話が長いのだ。こちらに話を振っているようで、その実は一人で延々と話し続けているだけ。訊いてはいるものの、口を挟む余裕など少しもないのだから。
「血液配給するだけの簡単な仕事だよ?何も別に血液取らせろ、て言ってるわけじゃないんだし。あ、でも実際そっちのほうが人間の集まりはいいのか。なんでかな。短時間高収入だから?人間の世界でいう献血の感覚だから?それとも、血液を与えておけば吸血種族は大人しいと思ってるから?不思議だよね。自分の体に傷を付けるよりも、傷を付けられる可能性のほうに怯えるなんて。理解不能というか、まあ、理解しようとも思わないのだけれど。お金になればいいのか、死ぬ可能性があるなら、小さな傷を付けられるほうがいいのか。うん、やっぱりわからない。それは人外にとって死が身近なものじゃないからなのかな。やっぱりわからないね。──で、君はこの仕事、やってくれるの?」
話しはぶつ切りのように終わり、再び顔を近付けられた。正直、何の話をされていたのかはよくわからない。早口過ぎて頭の中で考えることが追い付かず、せとなはその考えることすら放棄していたからだ。なので突然何かを訊かれてもそれがどんな質問なのかわからなかった。
「え?」
せとなは眼前にある大きな藍色の瞳を見ながら間抜けな声を出した。
「やるの?やらないの?」
相手は少し苛ついた様子を見せながら言う。甲高い早口をずっと聞いていたせいで耳の奥が痛いような感覚がある。
「あ……やります?」
相手の勢いに押され、せとなはつい小さく頷いてしまった。というより、それしか選択肢を残されていないような気がしたのだ。
「じゃ、前払いね。これは、逃げないように。貰うものだけ貰って逃げようとしたら、全力で捕まえるから」
茶封筒を渡されながら、おぞましいことを言われた。人外の全力など、人間には計り知れないものだ。せとなは引き攣った笑いを浮かべながら返事をした。正直、帰りたいと思った。確かに、簡単な仕事だ。ただ、身の危険がある。それは小さな可能性ではあるが、ゼロとは違う。
「はい、じゃ、これ。列がなくなるまで配ってね。足りると思うから」
ずらりと並んだ血液入りの瓶は何百とあるように見えた。これを全て配り終わるのは一体何時になるのだろうか。そう考えると、日当は決して高い金額には思えなかった。
せとなは瓶が入ったケースを持ち上げてみたが、想像以上の重みが腕へと負荷を掛ける。だけれど運べない重さではない。
「へぇ。人間のわりに力はあるんだね」
感心したように言われたが、どうやら手伝う気は微塵もないようだ。まあ、これはせとなに課せられた仕事なので手伝うほうが不自然なのかもしれないが、この量を全部一人で運ぶのは流石にきついように思う。
「あの……他にはいないんすか?バイト」
かちゃかちゃと音を立てるケースを運びながら訊いた。瓶の中では血液が揺れていて、ずっと見ていたなら乗り物酔いと同じような症状を起こしそうだ。
「うん、いない。君以外は全員帰ったよ」
──なんたることだ。
せとなは溜め息を吐き出したいのをどうにか堪えた。やはり、一人で全部やらなくてはならないのだ。
「ねぇ、人間は人外が恐ろしいの?」
不意に訊かれ、どう答えていいのかわからなかった。恐ろしいとはまた違うような気もするが、怯えていると言われればそうなような気もする。兎も角言えること、自分達とは全く別物の存在ということ。
だけれど彼ら人外に言わせてみれば別物のでもないということらしい。
「俺に訊かれても……」
少しばかり辛くなってきた腕を気にしながら答える。一回目でこれだ。あと何往復すれば終わるのだろうか。
建物の表側に出ると鋭い眼光を感じた。恐らく、吸血種族が血の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。テントの下に群がる吸血種族達が一斉にせとなに顔を向けた。
耳が少し尖り、犬歯が鋭いことを覗けばその見た目は人間と大差はない。ただ少し血色が悪いくらいだが、これは彼らが存分に供血してもらえないせいだろう。彼ら吸血種族のエネルギーとなるのは食事ではなく血液だ。それも人間の。だけれど勝手な吸血行動は法律で禁止されていて、それを犯せば罰せられる。
──そう、法律があるのだ。
人間と人外が共存していく為の法律。それが施工されてから十年足らず。それでもこの東京都の一角は見事に一つの国が出来上がっているように思えた。そして、幼い頃からこの区画で暮らすせとなにはその光景がある程度は当たり前のものに思えていた。