プロローグ
兎に角、五月蝿い。煩い。耳を塞いでも塞いでも、何なら切り取っても五月蝿いし、煩い。もう、耐えられない。何でこんなに聞こえてくるのか。何処から聞こえてくるのか。耳を切り取っただけでは鼓膜はなくならないのか。いや、そんなはずはない。だって、その音しか聞こえてこないのだから。他は何も聞こえないのだから。
五月蝿い。耳鳴りみたいな、けれど違うような。ひたすら、ひたすら聞こえる。一体何なのか。これは何だというのか。何故、聞こえてくるのか。そして、何で自分だけなのか。
ああ、もう嫌だ。
全部嫌だ。
聞こえてくる音も、周りも何もかも。全部が嫌だ。嫌で嫌で仕方無い。でも止まない音は苦しめてくる。頭の奥でずっと聞こえる。どうして。一体何で。何したっていうのか。
全てに苛立ち、思い付く限り蹴飛ばす。足の指が痛くなるが気にしない。何度も何度も、取り敢えずベッドの縁を蹴る。鉄パイプみたいなそれは、足の親指と人差し指に激痛を与えてくるが、耳を切り取ったときの痛みと較べたら大したことはない。裸足で何度も蹴るものだから、爪が剥がれ、血が出る。それでも続ける。膝から下には蹴る度に痺れるような感覚が走る。そしてそれは軈て脳天にまで届く。それでも蹴る。
がん、がん、と足の先を何度も打ち付けるようにパイプに当てる。足を開く角度もどんどん広がり、更に強い力で蹴る。もう、蹴るというよりは打ち付けているだけ。
だって、何も聞こえないのだから。どんなに蹴っても、どんなに打ち付けても、その音は何も聞こえない。まるで、テレビの音を消失させたような世界。だというのに、あの音だけ聞こえているのだ。痛くて呻いても、その声もしないというのに。
頭が可笑しくなりそうだ。いや、既に為っているのかもしれない。左足の指はもう血塗れで痛覚すら失いかけて、恐らく細い骨だって砕けているだろうに打ち付けることをやめないのだから。そこまでして他の音を確認したかったわけではない。もう、この耳が聞こえないことは否応なしに理解している。ただ、何かで気を紛らせ、この音を消してしまいたかったのだ。だから、何度も何度も足を打ち付ける。けれど、そんなことで聞こえ続ける音が止むことはなかった。
痛みでも消せないとなるともう、後は死ぬしかない。それしかこの音を消す方法なんてないのだ。うんざりする。聞こえ続ける音は意味を成しているわけではないし、何を訴えてくるわけでもない。ただ、ひたすら有りもしない耳の奥で鳴り続けるのだ。
簡単に死ねる方法はないか。首を吊るのは苦しそうだし、何より死体が汚いと聞いたことがある。手首を切るのは確実でないし、確実に死ねる程深く切れる自信もない。足を打ち付けるのと手首を切るのではまた違うのだ。飛び降りるのだって、そんな勇気はない。寧ろ、そんな簡単には死ねないのだと漸く気付いた。
──ああ、駄目だ。もう駄目だ。脳すら正常に活動していない。
簡単には死ねないことすら忘れているなんて。なんで、簡単に死ねないのだろう。あの存在はあっさり死ぬのに。何で自分達は簡単に死ねないのか。
今まで死にたいなんて、思ったことはなかった。なので、この体質を疎ましく思ったことなど一度もなかった。だけれど今は疎ましくて仕方無い。死にたいのに、死ねない。いや、死ぬ方法がないわけではない。ある。けれど、自分では簡単には死ねない。死ぬまでが大変だ。
大変な思いをしてまで死にたくないわけではない。ただ、本当に大変なのだ。それを最後まで遂行出来る自信がない。その前に策は尽き、それでも生きているのだろう。
頼みに行くしかない。
ああ、でも、こんな音が鳴り響くなかで上手く歩けるのだろうか。探すことが出来るのだろうか。でも、行かなきゃ。
お金。そう、お金も纏めなきゃ。幾らあれば足りるか。でも、死んじゃうならローンは組めないだろう。足りないなら、頼みこもう。残ったものは肉体も何もかも、全て差し出すから、と。
よし、行こう──。