最後で最初の日
たった数音だけれど、とてもきれいな音だった。
だから、早くあの曲の本当の姿を取り戻したいと思った。
本当はどういうメロディで、どういう続きがあったのだろう……
そう思って、音をパターンを変えて、紡いでいく。
うっかり、“生徒”のことを忘れて、楽譜に夢中になってしまったのは、失敗だったけれど。
鬼将軍閣下を怒らせてしまったようで、たった一日で、心がくじけそうになった。
鬼将軍は怖かったけれど、これを逃せば、この曲の続きを知る機会は永遠に失われてしまうかもしれない。そう思い、このバイトを続けた。
鬼将軍の名を『テューレ』様と知った後も、結局『閣下』と『教官殿』の呼び方は変わらなかった。
バイトを始めてから、半年後の今日、ついに曲は完成した。
別れの挨拶を告げようとする私に、閣下は言った。
「この曲は連奏する曲だとばあ様から聞いた」
楽譜もなしに上手く弾けるか不安だったが、半年もこの『曲探し』に携わってきたのだ。
私はそっと鍵盤に指先を置いた。
一度弾き始めると、彼の音が次にどの音を奏でれば良いのか、教えてくれた。指先が自然にその音に触れる。
追いかけ追い越し、寄り添い、重なり、やがて解けて静寂が訪れた……
今の二人の技術と知りえる情報で最高の音楽だったと思う。
でも、まだぼやけている。
「もう一つ、大事な任務を忘れていました」
閣下は不思議そうに首を傾げる。
彼の顔が『これで、十分じゃないか。この上、何が足りないんだ』と言っている。
「この曲は名前を取り戻していません。あなたが名前を見つけてあげてください」
しばらく「うぅ~ん」とうなり声を上げて考えていた閣下は、ぽつりとつぶやいた。
「『人魚姫のピアノ』」
名前を付けたことで、その曲の“色”が鮮明になった。
遠くから見たら青く、手に掬えば透明な……
「エイル。その……勝手な願いだが、もしよければたまにここに来て、一緒に演奏してくれないか? 教師としてではなく、友人として」
半年も通っていると怖さは消えていた。
私は眼鏡をはずして、初めて彼の名前を呼んだ。
「わかりました。テューレ様」
☆
「服は何を着ていこうかしら……」
このバイトを受ける時に肩口でばっさり切った髪は、今では肩を超えて背の半ば近くまで達している。
しばらくはこのくらいの長さでいいかな?
半年前は、目立つのが嫌いな臆病で地味な女だった。
髪を切ったくらいで臆病な性格が変わるわけではなかったけれど、『ミンチ女史』を演じるのは面白かった。
教師の時に着ていた服は完全な仮装だから、さすがに友として閣下……じゃなかった、テューレ様のお宅にお邪魔するなら、あの格好はどうかと思う。
だけれど、バイト代も生活費以外はほとんど実家に送ってて、あまり余所行きの服はないし……
明日、彼の家に行くのは、本当は怖い。初めて彼の屋敷を訪れた時と別種の怖さだ。
彼は、私の“本当”を知ったら、がっかりするかもしれない。
でも……。 不安を押し込めて別のことを考える。
「明日は、何か持っていこうかしら……」
初めてお邪魔するのだから、甘いお菓子でも。
名前をつけられた『人魚姫のピアノ』はきっと今日よりかずっと素敵な曲になっているだろう。