教官殿
「一応、鬼将軍のお父様にもひるまなさそうな子を選んできたわよ」
一週間後、娘の旦那の伝手で呼ばれた教師は妙齢の女教師だった。
黄色がかった赤毛を肩口で短く切っており、毛先はわずかばかりはねている。キツネ型のめがねをかけているせいか、きびきびした印象を与えた。
教師を連れてきた娘は用事があるからと教師を置いてさっさと帰ってしまった。
教師の名はエイルというらしい。こちらが名乗る前に「では、本題に入りましょう」って言って先を促した。まあ、わざわざ名乗らなくてもわしが噂の鬼将軍と聞いているだろうが……
わしの話を一通り聞いたエイルは考え込む。
「題名もわからず、楽譜も残っていないのですね。おばあ様はどこの出身ですか?」
あの後、実際の“ガクフ”なるものを見て、家に残っていないか家捜ししたが、“ガクフ”は見つからなかった。
「おそらく別の国の人だと……」
ばあ様の話し方にはわずかになまりがあったように思う。
「鼻歌でもいいですから、その曲を歌ってみてください」
いや、妙齢の女性に鼻歌を披露するというのはなんとなく気恥ずかしい。
まあ、ためしにやってみた。が、頭の中ではしっかり曲が流れているのだが、うまいことイメージどおりの曲にならない。
目を閉じて、黙って俺の鼻歌を聴いていた彼女は、目を開けた。
「限られた地域で使われていた曲か、それともおばあ様の即興かもしれませんね。
では閣下が書かれた楽譜を見せてください」
カイアスが案内や、お茶運びをしたときに『閣下』『閣下』と連呼するから、感染ってしまったではないか。
“ガクフ”ってあのおたまじゃくしがいっぱい並んでいるやつだよな。
「もう、退役しているので、閣下ではない。それに、わしは楽譜などという立派なものは書いたことはないぞ」
退役しているといっても、週に一度ふらっと軍の練習場に行って、新兵を揉んでいたりする。 若いものには“鬼将軍の抜き打ち訓練”と恐れられているそうだ。
「先ほど、楽譜を書いたとおっしゃっていたではありませんか。白と黒の鍵盤に番号をふって書いたものです」
彼女は楽譜もどき(?)を受け取り、ピアノの前に座る。最初の一音が落ちる。
「楽譜は音楽を記録するために符号を使って、記号化したものです。これも立派な楽譜です」
確かに、祖母が奏でた最初の一音だ。
「では、閣下には、楽譜の読み方を覚えてもらいます」
「“教官殿”、これじゃだめなのか?」
再度、『閣下』と呼ばれて、言い返したら、『教官殿』の呼び方が気に食わなかったのか、わずかに教官殿の眉が跳ねる。
さっきこれも立派な楽譜だと言ったではないか?
「これでは、音の長さがわかりません」
最初の一音を「ポン」と短く出して、次に「ポーン」と長く出す。
彼女は最初の数音しか記載されていない楽譜をじっと見つめ。
音をつなぐ。
最初はゆっくり、次は早く。同じ音の羅列に何パターンも強弱をつける。
そして……
最初の一音の後、間を空けて楽しそうに音が踊る。
「今の曲、ばあ様の曲に似ている」
鍵盤に集中していたのか、わしの呟きに教官殿は、はっと顔を上げ、ほんの一瞬だけ恥ずかしそうに微笑んで、笑顔を引っ込めた。
「すべて、この楽譜を見て、奏でたものです。
楽譜の読み方は後で覚えるとして、弾いてみなければ、面白くありませんよね。座ってください」
エイルは椅子から退いて、わしに椅子を勧めた。
どうせなら、もう少し笑えばよかろうに。
その日は、型も何もなく指一本で祖母の音を探した。
その横でエイルは番号の楽譜をおたまじゃくしの楽譜に作り変えていく。
といっても、初日は五本線に「○」を書いているだけだったが。
その次の『ピアノの日』は、一音一音の音の長さを確認して、「○」を「●」に変えたり縦線やら尻尾やらをつけ加えていった。
そうやって、ゆっくり失われた曲は形を取り戻していき……