無気力ショーグンと韋駄天
ふうう、と少女は大きく深呼吸する。これが大事。
顔を上げると、好奇に満ちた生徒達の視線とかち合った。彼らは、興味深々といった様子で少女を見ている。
その中に少女は――ビートの目を見つけた。
彼女は足を組んで、『ふふん、あんたが大恥かくのを見届けてやるわ』という顔をしている。けれど少女は、彼女を無視して正面に向き直った。
ざわつく音楽室。針のように突き刺さる幾つもの視線に、少女の足が震える。
――ううん、これは武者震い。こいつらの視線なんか、恐るるに足りない。そうだわ。だってあいつとの練習じゃ、虫扱いなんて日常茶飯事、罵倒された数なんて両手じゃ足りないもの。だから、大丈夫。怖くない。
そう自分に言い聞かせて、真一文字に唇を結ぶ。
音楽が流れ始める。川のせせらぎにも似た音が、空気を凜、と引き締めた。その伴奏を聞きながら、少女は目を閉じて心の中で呟く。
――忘れないよ、ショーグン。あんたに教えてもらったこと。今から私は、私の為じゃなく、ビートを見返す為でもなく、あんたの耳に届かせる為に、歌うから。
体中に走る忌々しい緊張の波を振り払って、少女は目を開けた。糸を紡ぐかの如く繊細なリズムで、歌が始まる。
――だから。最後まで聞き届けてよ、ショーグン。
♪
少女は、半ベソをかいて思っていた。なぜ、こんな奴の口車に乗ってしまったんだろうと。
少女は今、第二音楽室の中央に立って、歌の練習をしている。
この第二音楽室は随分前から授業にもクラブ活動にも使用されなくなった教室で、すっかり寂れてしまって埃臭い。そんな教室で、少女は歌の練習を一人ではなく、『二人』で行っていた。
そのもう一人は、どっしりと腰を構えたグランドピアノの前に座り、黒白の鍵盤の上で指を踊らせている。
その指が生み出す音は――少女の後悔の念さえ悠々と拭い去ってしまうほど深く、穏やかで美しかった。
――なんであんな奴が、こんな綺麗な音を奏でられるんだろう?
さざめく波のような旋律に心奪われながら、そんなことを考えていると、不意にピアノの音が止んだ。
ん? と顔を上げると同時に、視界に何かが飛び込んでくる。瞬きをする間もなくそれは、少女の額に突き刺さった。
「い…いったあああっ!」
少女は額を押さえて悲鳴を上げる。軽い音を立てて足下に落ちたのは、指揮者の命(?)である指揮棒だ。
誰がこんなものを、と問うまでもない。この空間には、少女を含め二人しかいないのだから。
生まれつきのつり目をさらに吊り上げて、指揮棒を投げ付けた伴奏者を睨み付ける。
「いきなり何すんのよっ、ショーグン!」
艶やかに黒光りするグランドピアノの前に座る、貴公子のよう――ではまるでない寝癖の酷い少年は、大きなあくびをしてイスの背にもたれかかった。
「誰の練習に付き合ってやってると思ってんだ。もっと集中しろ。それからな、そのふやけたクラゲみたいな顔すんのやめろ」
「くっ、クラゲ? そんな顔してないよ!」
少女が肩をいからせ反論する。花盛りの乙女に何を言うのだ、こいつ。
「いーや、してるね。おまえさ、なんで伴奏が始まるとあーゆー顔になるんだ?」
ぼりぼりと頭を掻きながら、少年はこれ見よがしに溜め息をつく。
「そっ、それは……」
あんたのピアノの音がとっても綺麗だったから。なんて口が裂けても言えない少女は、しどろもどろになりながら指揮棒を拾う。
この少年と歌の練習を始めて一週間、こんな調子で試験に間に合うのだろうか、と自分の事は棚に上げて少女は憂鬱になった。
そんな少女とは対照的に、少年は顎に手を当てながら楽譜にチェックを入れている。
その、珍しく真剣な少年の眼差しを見ていると、少女は複雑な思いに囚われた。
少年の音は、少女がこれまで聞いたどの音より――音楽科のエリートと呼ばれる人達の音楽よりも、ずっとずっと綺麗だ。なのに、少年は音楽科の落ちこぼれというレッテルを貼られている。
それがどうしても、少女には理解出来ない。
それと同時に理解出来ないのは、学年一の面倒臭がりで有名な彼が、自分の歌の練習に付き合ってくれていることだ。
――いや、でも。
と、少女は足下に視線を落とす。そこにあるのは、K高校購買部一の人気を誇るクリームコロッケ。これがきっと、奴の原動力なのだと少女は推測していた。
あれは、一週間前の放課後のこと。
あの日、少女は立ち入り禁止になっている第二音楽室に忍び込み、一人、歌の練習をしていた。
何故ならその日の音楽の授業で、ビート――声楽一の天才と呼ばれる奴のあだ名だ――に散々馬鹿にされたからだ。
――あんたさ、元は小・中学と陸上のエースだったんでしょ? 来るトコ間違えてんじゃないの?
少女は、歌を歌うのが3度の飯より大好きだ。けれど、その気持ちの大きさに少女の音楽的才能は決して比例してはいなかった。
その代わり、望みもしないのに陸上の才能だけは同年代の選手の中で群を抜いていた。
それでも自分は歌いたい、とスポーツ強豪校から寄せられた推薦を全て蹴り、大量の生徒を音楽科に受け入れる事で有名なこの高校に入ったのだ。
しかし、いつまで経っても少女は音痴のままで、『音痴の韋駄天』などと有り難くもないあだ名までつけられてしまった。
そんな自分が惨めで情けなくて、声が枯れるほど歌を歌っていたとき、この少年はふらりと現れた。
のそのそと、ピアノの下からほふく前進で。
――よう。おまえ、噂の韋駄天だろ。
突然現れた少年にあっけにとられていると、少年は酷い寝癖がついた髪をかき上げながら言った。
――おまえ、イイもん持ってんな。
少年が指差した物は――少女の膝に乗った白いビニール袋。
それには、少女がストレス発散にヤケ食いしようと買ったクリームコロッケが入っていた。開いた袋の口から漂う香ばしい匂いを嗅いだのだろう。
少年が言ったイイもんとは、これのことらしい。
――あっ、あんた、いつからそこにいたの?
少年は軽く肩を竦め、
――おまえがこの音楽室に入ってきた時からいたよ。それよりおまえ、ビートに馬鹿にされたクチだろ。
反論出来ない少女を、立ち上がった少年は無表情で見下ろす。
――俺と、契約しないか?
契約? と訝しげに少女は眉を寄せる。
――そのコロッケを食わせてくれるなら、一ヵ月で俺がおまえを鍛えてやる。一ヵ月後の試験で、あいつを――ビートを見返せるぐらいにな。
ビートを見返すという少年の言葉に少女は目を大きく見開いた。
――本当に奴を見返せるの? 私、ビートを見返す為ならなんだってするから!
――なら、決定だな。
決意新たに大きく頷いた少女は、問うべきことを思い出した。
――そういえば、あんた……誰?
少年は半眼で少女を見、のろりと答えた。
――音楽科一の落ちこぼれ、だよ。
――は? あの、噂の無気力ショーグン!?
少年は億劫そうにあさっての方向を向く。
――たぶん、そう。
こうして、自分から動くことはないくせに態度だけは将軍のように尊大だと噂される少年・無気力ショーグンと、声楽一の落ちこぼれであり、元は陸上選手として名を馳せた少女・韋駄天の関係は始まったのだった。
♪
第二音楽室の静寂が、抑揚の無い一言によって破られる。
「――もう一回、やり直しだ」
それを聞いて、目の前の小柄な少女は肩を落とした。
少女の音痴っぷりは小年の想像をはるかに超えていたため、練習二週間目にして進んだのは課題歌の半分だ。
発声の練習やリズムの取り方などに一週間が消え、時間が無いというのに、少女のやる気は衰えを見せ始めていた。
「……なんであたしって、こんなに歌下手なんだろ」
一週間目で初めての少女の弱気な発言に、少年は鼻を鳴らす。
「ホントにな。今まで何をやってたんだか」
事実を言ったまでだが、少女は気分を害したようにむっとした顔をする。
「……何も、そんな風に言わなくたって」
「じゃあ、慰めの一つでも言えばいいのか? それでおまえの歌が上達すんのかよ」
ぐうの音も出ないらしい少女は、悔しげに唇を噛んで俯いている。その様はまるで子供だ。
いつまでも落ち込まれているのはうっとうしい。少年はピアノを弾く手を止めた。
「いいか。おまえの歌は、基礎がなってない。技術は、努力すれば必ず身につく。声は綺麗なんだから、弱音吐いてる暇がったら発声練習でもしろ」
分かったか、と少年が顔を上げると――少女は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。
「……ショーグンも、優しいこと言えるんだね」
そりゃどういう意味だ。 思わず目が尖る。
少女は下手な口笛を吹きつつ、ふいと目を逸らした。
「それよりさぁ、どうしてショーグンはこんなにピアノ上手いのに、落ちこぼれ呼ばわりされてんの?
多分、大した考えもなく出た一言だろう。軽く流せば済む話なのに、思わず手が止まってしまった。
「……ショーグン?」
少女が怪訝な視線を向けてくる。
少年は動揺を悟られないよう、すぐさま指を動かすが、少女の視線が頬に痛い。
放っておけばそのうち諦めるだろうと無視していたが、少女は穴が開くほど少年を見ている。ものすごい執念のこもった視線だ。
しょうがなく、少年は口を開いた。
「……簡単だ。ピアノの腕がねぇからだよ」
少年の返答に、少女はわかりやすく不満を露わにする。
「それって、嫌味? ショーグンのレベルでそうなら、他の人なんて問題外になっちゃうよ」
少年は、何の感情もこもらない目で少女を見返す。
「……技術の問題じゃねぇよ。中身の問題だ」
そう言いながら、少年はある言葉を思い出す。
――おまえの技術は凄い。だが、それだけだ。訴えかけてくるものが何もないんだ。
――そんなまやかしの演奏で、人の心は動かない。
そう、あれは二年前のコンクール。ピアノを弾いて、そんなことを言われたのは、初めてだった。
ずっと天才ピアニストとして持ち上げられてきて伸びに伸びきった鼻を、世界で一番尊敬していた人にへし折られた。
あの日を境に自信もプライドも、瓦解してしまった。
あの言葉を思い出すたび、鍵盤を叩く指が重くなる。
忘れようとしてもピアノを弾いている限り、あの言葉が何度でも少年の心を抉る。
もう、限界だった。だから決めたのだ。ピアノを弾くのはこれが最後にしようと。
その決意を形にしたものが、胸の裏ポケットに押し込んである。
「どんなに技術があっても――俺のピアノは、空っぽなんだ」
俺みたいにな、と少年は心の中で呟く。
――と。
「そんなことないよ」
少女は、至極当然な事実を語るように、きっぱりと断言した。
真っ直ぐに少年を射抜いて、莞爾と笑う。
「あたしは……ショーグンのピアノ聴くたび、本当に優しくて綺麗な音だと思うもん」
飾り気のない、単純な言葉。だからこそ、裏表もない。
呆然とする少年を尻目に、少女は大きく伸びをすると発声練習を始めた。
少年は柄にもなく慌ててピアノの鍵盤を叩く。口許に滲んでくる笑みを堪えるのには、かなり苦労した。
♪
練習四週間目。ついに、課題歌の最後の四小節。
少年が叩きこんだ基礎を余すところなく糧とし、少女は清流のように澄んだ声で歌う。その声は、練習開始頃のものとは比較できないほど涼やかな響きを持っていた。
少年はその歌声の響きを壊さないようピアノを弾きながら、密かに舌を巻いた。
(まさか、たった一ヵ月でここまで上達するとはな)
少女は基礎を固めると、あっという間に力を伸ばしていった。
最初はあくまで面白そうだし、大したこともないくせに偉そうなあのビートとかいう奴の吠え面を拝んでみたいという気持ち半分、クリームコロッケ狙い半分で鍛えてやるなどと言ってしまったが、これならばビートを見返すことも不可能ではないかもしれない。
それに。少女の歌声を聞いていると、不思議と指が軽くなる。信じられないことに、ピアノを弾いているのが楽しくなる。遠い昔に忘れ去った筈の感覚が戻ってくる。
そうして曲は、フィナーレを告げた。
緊張を解いて、少女はその場にへたりこむ。
少年も深く息を吐いてピアノに頭を預けた。本当に久しぶりに、楽しかった。
「――ねぇ、ショーグン。どうだった?」
絨毯の上で大の字に寝そべった少女が、感想を求めてくる。
少年は、両腕に顔を埋めて静かに答えた。
「――聴けるぐらいには、なったかもな」
自分の中の天の邪鬼がひょっこりと顔を出す。
この感想に、もちろん少女は拗ねるだろうと少年はふんでいたが、予想に反して彼女は軽やかに笑った。
「そっか。なら、少しは前進できたかな」
お調子者の少女が珍しく謙虚だったので、少年は素直に褒めてやれば良かったかとほんの少しだけ後悔する。
しかし、少女が満足そうに笑っていたので放っておくことにした。
「さて! 一通り終わったから、休憩にしようよ」
ニコニコと笑いながら、少女が白いビニール袋の中からコロッケと缶ジュースを取り出す。
そういえば腹減ったな、と先程から鳴り続けている腹を押さえて、少年は少女の隣りに座る。
手渡されたコロッケは少し冷めていたが、空腹の為かとてもうまい。無言でコロッケに齧り付く少年の隣で、一方の少女はカチカチと缶ジュースのプルタブを開けようと苦戦していた。
「あ…開かないぃぃ」
そう言って少女が渾身の力を込めた瞬間、プルタブが開いて中身のサイダーが間欠泉のように噴き出した。
「うわっ! ど、どうしよ……ショーグン」
少女が困ったようにこちらを見る。そして、笑えるぐらい見事に、表情が固まった。
「……あ」
今のサイダーは事もあろうか、少年に向かって噴き出したのだ。おかげで、少年は上半身がびしょ濡れになってしまっていた。
少女は土下座でもしそうな勢いで謝罪を繰り返す。
「うわあああっ、ごめんなさいごめんなさいっ! ああっ、服びしょ濡れだぁ」
慌てた様子の少女に対し、少年は興味のかけらもなく我が身を見下ろし、
「全くだ。コロッケが駄目になった」
と眉間にしわを寄せた。
少女は、呆れた、とでも言わんばかりにうなだれる。
それでもポケットからハンカチを取り出して、まず濡れた少年の顔を拭き、次いで少年からブレザーの上着を無理矢理はぎ取った。
「あー、べたべただなあ。洗った方が……って、ポケットに何か入ってんじゃん! 濡れちゃったかな?」
そう言って、少女がブレザーの上着の裏ポケットに手を差し込む。
ぼーっとしていた少年はそれを聞いて、はっと我に返った。
「――おい、やめろ!」
だが、大声で怒鳴ったのが逆効果だったらしい。少年の腕が届く前に、少女の視線がそれに落ちる。
そして少女の瞳が、凍りついた。
「なに、これ」
壊れた機械のような平板な声が、少女の口からこぼれ落ちる。
構わず少年は、半ば乱暴に少女の手の中にあるものを取り返す。
少女はうつむいたまま、同じ問いを繰り返す。
「……なに、これ」
少年は沈黙するしかない。
少女は固く手を握り締める。
「――退学届って……ショーグン、学校辞めるつもりなの?」
何も答えない少年に焦れたように、少女が少年の腕を掴む。
「ねぇってば! 答えてよ、ショーグン!」
「離せ」
「嫌だよ、なんでやめちゃうの。あんなにピアノの才能あるのにもったいないよ。あんなに……」
「うるさい!」
少年は怒鳴って、少女の手を振り払う。
「何も知らないくせに……俺には才能なんてないんだ。音楽のことろくにわかってねぇおまえに、慰められたって嬉しくないんだよ」
「ショーグン……」
今まで見たことのない悲憤の色が、少女の瞳に満ちる。
少年は居たたまれなくなってうつむき、静かに言った。
「今は、人のことに口出してる暇なんかないだろ。おまえは試験のことだけ考えてりゃいいんだ」
封筒をズボンのポケットの奥に突っ込んで、少年は立ち上がる。
「――後は自分一人でやれ。じゃあな」
短く言って、踵を返し音楽室から出て行こうとしたとき、少女の叫びが背中を突いた。
「ショーグン、あたし、本当にショーグンのピアノ好きだよ! 誰のピアノと合わせて歌うより、ずっと楽しいってくらい。確かにあたし、音痴だし音楽のこと全然分かってないけど、でもショーグンの音は綺麗だな、って思う。何回でも聞いてたいなって思う。人にそう思わせるのが、才能なんじゃないの?」
少年の足が、ドアの前で縫い止められる。
「明日、きっと試験でビートを見返してみせるから。だから、絶対聴きに来て! あたし、待ってるから!」
今は、少女の決意さえも胸に痛い。
少年は、自分に向けられた誓いに何一つ応えられないまま、音楽室を後にした。
♪
歌が聞こえる。小鳥がさえずるように、第一楽章は始まる。あいつが何度も間違えたところ。
第一音楽室の前に、少年は立っている。中から聞こえてくる声に、耳を澄ませている。
約束だったから。どうしてもあの誓いに、耳を塞ぐことはできなかった。だから少年は、ここにいる。
――まるで幾重にも射し込んでくる朝の光のような柔らかな声。上手く歌えている。
第二楽章。ピアノの音と少女の歌声が、水辺の波紋のように広がっていく。
そして――最終楽章。歌声は優しく繊細な余韻を残しながら、すうっと消えた。
数秒の沈黙の後、教室の中から万雷の拍手が聞こえてきた。
――今までで、一番良かったぞ。韋駄天。
拍手を受けているだろう少女に、少年は心の中でそっと語りかける。そして、もたれ掛かっていた壁から背を離し、ポケットに手を突っ込んで一枚の薄い封筒を取り出した。
それは、少年が出そうと思っていた退学届。
これを出すことに、ためらいは無い筈だった。でも。
少女の歌声を聴いていると、もう一度だけピアノを弾いてみたいという気持ちになってくる。
誰かの期待を得る為じゃない。コンクールで勝つ為でもない。心の底から湧き上がる気持ち。
ピアノを弾くのが、楽しいと思える自分の為に。
少年は封筒を見つめると、決心して一息に破り、廊下のゴミ箱に投げ捨てた。
――もう少しだけ、頑張ってみっか。
そこまで考えが変わった自分に、少年は我ながら呆れ果てる。でも、そんな自分も悪くないなと苦笑した。
そして、少年がその場から立ち去ろうとしたとき、
「待って!」
聞き覚えのあるソプラノを受けて、少年は後ろを振り返った。
そこには、白い袋を持った少女が立っている。
頬は高潮し、いくらか強張っている。そんな顔は彼女には似合わない、と少年は思った。
「あのね、ショーグン……」
あたし、と少女が言いかけたところで、その声を少年が遮った。
「この前は、悪かった」
予想外の言葉だったのか、少女が目を丸くする。
少年は口をへの字に曲げながら、しきりに髪をいじる。
「お、俺はその……この前は機嫌が悪くて、おっ、おまえに八つ当たりして、それで、わ、悪いと思ってて、それで……」
人に謝ることなどこれまで無いに等しかったせいか、上手く言葉がまとまらない。
けれども少女は、蒼穹の如く鮮やかに微笑んだ。
「それはいいの。あれぐらいでへこたれるあたしじゃないし。……で、さ。あたしの歌、聴いてくれた?」
「――ああ。聴いた」
少女は、「……どうだった?」と、不安そうに眉を曇らせて聞いてきた。
そんな少女を、少年はいつもののろっとした顔で見つめる。そして、おもむろにポケットから祝福の証を取り出すと、少女に差し出した。
「え? あたしにくれるの?」
少年はこくりと頷く。
白い紙に包まれたそれは、クリームコロッケ。
「そのコロッケ。おまえの歌の価値は、そのコロッケとおんなじだ」
少女は苦笑する。
「ふん。あたしの歌の価値は二百円って訳ね」
少女は少し拗ねた顔でそっぽを向いた。
少年は意味が分からず顔をしかめる。
少年はただ、自分の大好物であるコロッケと同じくらい、少女の歌が素晴らしかったという意味で今の言葉を言ったのだが、少女には上手く通じていない。
少年が首を捻っていると、少女が口を開いた。
「ねぇ、ショーグン。あの、あたし今まで練習に付き合ってもらって、少しは上手くなれたと思う。だけど、だけどさ、やっぱりあたしまだまだ下手だし」
「まぁ、そうだろうな」
少年は素直に頷く。
少女はそれにむっとした様子で、それでも、片手に下げていた白い袋を少年に差し出す。その中から漂ってくる匂いは、クリームコロッケのもの。
「――だからさ、もう少しだけ、あたしの練習に付き合って欲しいんだ。……だから、学校やめないで」
腕だけ前に突き出して、少女はぎゅっと目を瞑る。まるで神頼みでもするかのように。
じっと返事を待つ少女を、少年は沈黙したまま見下ろす。そして、背を返して歩き出した。
背後で、少女が落胆する気配を感じる。少年は立ち止まり、肩越しに少女を振りかえった。
「おい、そこで何してんだ」
「え……?」
「ほら、行くんだろ。第二音楽室」
ああ、恥ずかしい。少年は照れを隠して、行くぞと顎をしゃくる。
少女はほんの少しの間呆然とし、――次の瞬間には目を星のように輝かせ、力強く頷いた。そして、少年の背中を追いかけてくる。
「待ってよ、ショーグン!」
少女の笑い声が廊下に木霊する。
その隣に立つ少年も、思わず微笑んでしまう。
二人の歩調は、いつになく揃っていた。
少女は少年を見ながら、思う。
――やっぱり、こいつってコロッケ好きなんだな。
というか、結局こいつの心を動かしたのはコロッケ?!
少年は少女を見ながら、思う。
――こんなにコロッケ買い込まなくても、練習なら付き合ってやるのに。こいつといるの、結構楽しいしな。
少女と少年は並んで歩きながらも、見事にその考えは揃っていない。
肝心の二人の心のリズムは、まだまだ混乱含みであった。