6日目
朝の目覚めはやはり悪い。昨日以上に身体がダルい。
一日ボーっとしてここに家でゴロゴロしたいという衝動に駆られたが、今日の予定を先延ばしするわけにはいかない。僕は身体を起こし、朝一番のシャワーを浴びる。
簡単な食事をし、9時に家を出た。目的地はアパートの管理会社だ。
もちろん怪奇現象が起こると言いに行く訳ではない。そんなことを言っても門前払いだろうから。
電車の中で何を言うか頭の中にまとめ、僕は2駅分の移動をした。
管理会社は駅前にあった。以前両親と尋ねたことがあったので、入るのに躊躇はしなかった。
フロントで僕は旨を伝える。
アポイントメントを取っていなかったことで、受付所のお姉さんは少し嫌な顔をしてきたが、そんなことは気にしない。彼らからすれば僕はお客様なのだから。
すぐに僕は奥の部屋へと案内され、ソファーへとかけるように言われた。
机の向かいにいる中年の男性のことは知っている。契約の時の名刺には確か、高橋と書いてあった。
ビンゴ。彼のネームプレートには「高橋 洋介」という印字がしてある。
「――で、アパートで水道の調子が悪いとおっしゃってましたね」
「ええ、契約時に確認した時には何とも無かったんですけどね。直せませんか?」
「はぁ……しかし」
「それにドアの鍵が掛けていないのに閉まってしまったこともありましたよ」
彼は「すいません」と平謝りをし、すぐに修理の者を派遣すると言ってきた。
対応は丁寧だが、その顔には「面倒臭い」という文字が書かれていた。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」
「なんでしょうか?」
「105号室に前に住んでいた人が、すぐに出て行ってしまったという話を聞いたんですけど、あそこって何か問題でもあるんですか?」
核心に迫る質問であった。
「すいません。あの物件が当社の管理下になったのは今年の事だったんですよ。だから知りかねますね」
しかし、戻ってきた答えはあまりにも僕の期待外れの事だった。
「でも――――何か知っていませんか? 例えば事件があったとか」
「――――そんなことは聞いておりません」
いくら聞いても彼は知らないということの一点張りだ。
本当に知らないのか、知っていて嘘をついているのかは判断できない。
だが、こうまで言わないのだから、何をしても聞き出せないのだろう。
とりあえず、水道やドアは直してもらえるらしいので、僕は会社を後にすることにした。
結局、電車に乗って遥々来たというのに収穫はゼロ。途方に暮れて、駅に向かっている途中、僕の目にはある建物が飛び込んできた。
市立図書館――――なるほど。
ここならば、事件があったならば調べられるはずだ。
迷う理由はない。僕は図書館へと歩んだ。
思った通り、図書館では過去の新聞記事をスクラップとして取ってある。
問題は情報の山からどうやって、事件を調べるかだ。
僕の知っているキーワードは少ない。ただページを捲っているだけでは、見つけるのは無理だ。
だが、僕は現代っ子。困った時の常とう手段を知っているのだ。
PCコーナーでパソコンの電源を入れ、インターネットに接続する。
もちろん検索サイトにアクセスをする。キーワードは
「XXXアパート 事件」
最初から引っかかることを期待はしていなかったが、やはり目ぼしい情報は無い。
なんども検索ワードを変えてもヒットしない。
焦りを覚えてきた頃、あることが思い出された。
たしか管理の会社の名前が変わったと。ならばアパートの名前が変わっていてもおかしくない。
僕は携帯電話を取り出し、メモ帳に記録をしておいた自分のアパートの住所を打ち込んだ。
「ハイツ×××」
ビンゴ。同じ住所で違う名前の物件を発見した。
ホームページのタイトルは「△△△不動産」
先ほど訪ねた会社とは違う。おそらく前の管理会社のことだろう。
ページの更新は去年で止まっている。おそらく会社自体は潰れてもホームページを消し忘れたのだろう。
だが、お陰で助かった。アパートの名前を得る事が出来たのだから。
「ハイツ××× 事件」
ワードを入れて検索をしたところ、思ったよりも簡単にヒットした。
「春野 瑛子さん、行方不明」
僕が思った通り、あのアパートの住人が事件に巻き込まれていたのだ。
記事の内容は以下の通りだ。
1987年、3月27日未明。都内に都内に住む、春野 瑛子さん(18)と連絡が取れないと両親が警察に通報した。同日、警察はアパートをくまなく捜索したが、部屋には金品が荒らされた形跡はなく、彼女の行方に繋がる手掛かりは見つからなかったという。
春野さんは同年、●●大学に合格したばかりで、周りに親しい友人や知り合いはいなかったらしい。
警察は近隣の人に聞き込みを行うなど、彼女の行方について追っている。
失踪事件など良くある話――――いつもはそんなことを思っていた。
しかし、自分の住んでいる場所が事件の舞台になっていると考えるとゾッとした。
春に引っ越したばかりの女の子が急に居なくなるだろうか?
事故? 自殺? いや、殺人――――
僕は幽霊なんていないと考えている。昨日感じた感覚も嘘だと信じたい。
しかし、いるとすれば、それは自分の執着する場所に留まるのではないだろうか?
そして彼女が今いる場所は――――
いや、警察が調べたのだから殺人の可能性なんて――――
とにかく、僕はとんでもない所に住んでいる。それだけは理解できた。
結局、その日はそれ以上の情報は知ることが出来なかった。
家に帰ったのは昼過ぎだ。本当は帰りたくなかったが、最近の外出で出費はかさんでいる。
ここは堪えなければ。
それに調べたい事があった。
僕は部屋の中を見渡し、怪しいと思うところをすべて調べた。
何もない。
当たり前だ。事件は24年も前に起こっている。その間に何人もここに住んだだろうし、記録によれば改築もされている。何かあれば分かるはずだ。
しかし、こうでもしなければ、冷静な思考を保つ事が出来なかった。
夜まで部屋の中を調べたが何も成果は出なかった。ただ身体が疲れただけ。
今日は早めにシャワーにしよう。そう思った。
だが、バスタブを見て、考えは変わる。ここに来てから一度もお湯を張った事は無かった。だからお風呂に浸かりたいと思ったのだ。
詮をし、湯を溜める。お湯が外に出てはまずいので、量は6割程度だ。
大した時間もかからずにお湯はバスタブを埋め尽くした。
狭いと言えど、久しぶりのお風呂に何だかワクワクする。
お湯に浸かることで疲れは癒された。今日の汗も心配事も流れて行く――――
ウトウトとした。昨日はあまり上手く寝付けなかったから。
気が付けば、バスの中は暗くなっていた。
寝てしまい、何時の間にか日が落ちてしまったらしい。
電気は外にある。すぐにはつけられない。
僕は湯船から立ち上がる。しかし、何となく身体に違和感があった。
足がやけに重い。湯に浸かっている腕もだ。
唯一お湯から出ていた右腕を湯に突っ込む。
ヌチャリ――――
気味の悪い感触が指先から脳へと上がってくる。
まるで藻の群れにでも手を突っ込んでいる感覚だ。
この時から悪い予感はしていた。しかし、やるしかなかった。
右手で思いっきり物体を掴み、一気に引き抜いた。
ブチブチと鈍い音がし、物質はちぎれた。
「うわああああああっ!」
手についたもの、それは髪の毛だった。無数の毛がお湯を黒く染めている。
なんでこんなものがっ!
半狂しながら、僕は手足に絡みつく髪の毛を引き千切った。何度も何度も――――
身体が自由になったところでお湯を出て、バスの電気を点けた。
だが、そこには何も無かった。ただ湯船に張られたお湯があるだけ。しかし、その湯の色はほんのりと赤い。
「っう……」
痛みが走った――辿れば掌からだ。
見れば右手が赤い。掌を横断するように赤い線が付いている。
血だ――――湯船を染めたのは僕の血だった。
傷口を確認すると痛みが増したようだった。
血が滲み出るたびに、ズキズキとした鈍い痛みを感じる。
僕は慌てて部屋に戻り、止血を試みる。包帯も何もなかったので、食器拭きに使っていたタオルで手を縛った。
傷自体は深くないらしいが、どうも血が止まらない。タオルをきつく縛り、自分の心臓よりもあげる。
これでしばらくすれば血が止まるはずだ。
床に座り、僕はバクバクと音を立てて鳴る心臓を抑える。
「大丈夫。あれは夢だ――」
いくら呟いても、身体で感じた感触を忘れることはできない。
今でも身体全体にねっとりと絡みつく髪の毛の感触を忘れる事はできないのだ。
あれが夢幻だとしたら、なぜ、僕はそんなものを見る。
髪の毛。あの長さならば女性。髪の長さは背中程だろうか。
僕の頭には部屋の外にいた赤いブラウスの女性のことが浮かんだ。
遠目だったが、彼女の髪の毛の長さは長かったと思う。
という事は、彼女が春野 瑛子。
そして、彼女は――
「ここにいるのか……春野 瑛子さん――――」
呟いた。
呟いた言葉は波紋のように僕の心の中を確信の色で染めていく。
いるのだ。彼女は。この部屋に――――
そして僕に何かを訴えかけている。
「探せということか――――」
僕は重い手を引きずりながら、部屋を調べた。
良く見ればフローリングは濡れていた。僕の身体は確かに濡れていたが、僕の進んでいないところまで水滴が続いている。
その終点は壁だ。
白い壁に黒い物が付着している。
風呂に入る前には無かった黒点。それは入り口から見て右側にあった。
黒い点の色はくすんでいて、この色を僕は知っている。
手に巻いたタオルを見る。白の生地は深紅に染められている。
このタオルを放っておけば、この色になるのだろう。
僕は壁を叩いた。手に伝わるコンコンという音からして、コンクリートだろうか。
コンコン――――
思考を中断させたのはノックの音。扉からではない。壁からノックが返って来たのだ。
僕はもう一度ノックをする。
コンコン――――
やはり同じように返事が返って来た。
隣の部屋。そこには金髪のお兄さんが住んでいるはずだから、ノックが返ってきても
おかしくは無い。しかし、今の状況ではそう言い切れるだろうか?
彼が隣の部屋に居て、ノックを返してくれていると。
ならば、なぜ、隣の部屋のベランダから光が洩れていない? なぜ、彼は文句すら言いに来ない?
僕は壁に耳を当てた。
ザー…………
聞こえる。テレビのノイズが――――
「春野 瑛子さん…………?」
呟いた途端、背中に何かが触れた。
水、それにしては温かい――――
ペタペタ――――
何度も何度もそれは僕の背中に当たる。
繰り返されるたびに、背中が冷たくなっていく。
当たる液体はこうも温かいというのに。
そして、僕は気付いた。
僕の背中に触れているのが何者かの手であることを。
そして、恐る恐る、その手を掴んだ。
振り向かず、慎重に――――
ズル――
手首を掴むと、手は無抵抗に引き寄せられる。
嫌な感触と一緒に――
まるで川底の藻に支配された石を触るような、ぬるりとした感触。
嫌悪感と恐怖が混じり合っているというのに、僕はその手を自分へと引き寄せた。
ズルズル――グチャ。
生肉を床に落としたような音だった。
横目に入っている床には血だまりが出来ている。
その中心には肉の塊があった。
血があったからこそ肉の塊だと分かった。
それがなければ、僕は赤いゴム手袋だと思っていたはずだ。
なんせ、その肉塊には五本の指が付いていたのだから。
悲鳴をあげそうになるが、僕の口は全く動かない。歯だけがガチガチと音を立てて動いている。
左手にはまだ何かを持っている感覚がある。明らかにさっきよりも細い、何かを――――
意を決し、引き寄せると、枝が見えた。白い枝。
五本に枝分かれし、中間部に綺麗な節が付いている。
こんな枝など存在するはず無い。これは骨だ――
肉が剥がれ落ちた腕の骨だ――――
僕の背中に柔らかいものが当たる。
そうだ、腕を引き寄せたということは、僕の背中には身体があるのだ。
鼻はその悪臭によって曲がった。
首筋はその細い髪の毛によってチクチクした。
耳はその吐息によって凍りついた。
目を瞑る事もできず、見ることもできず、僕はただただ耐えた。
「―――て」
それは僕に何かを囁いている。
だが、声は小さすぎて聞こえない。
「――けて」
僕は全神経を耳に集中させた。
「―つけて」
聞くのだ。彼女の望みを。
「みつけて」
聞こえた。
見つけて――それが彼女の望み。
じゃあ、何を? どこで? どうやって?
声をあげようとしても、口は動かない。喉はカラカラだ。
――――急に背中が軽くなった。
逃げ出すなら今しかなかった。
勇気を振り絞り、振り向く――――
そこには女性が立っていた。
全身はボロボロで酷い悪臭がする。
所々、骨が見える。腰なんてあんなに括れてしまって――――
怖い存在である彼女を見た時、僕は思ってしまった。
なんてかわいそうなのだと――――
彼女の顔。ほとんど骨になっている顔。けれどその表情は何を意味しているか分かった。
彼女は泣いているのだ――――
「見つける――君を」
震えた声で僕は言った。
ドンッ――――
言葉を言った瞬間、僕の身体は後ろへと倒れた。
胸に受けた衝撃は彼女の腕によって生まれたもの。
僕の姿勢は後ろへと崩れて行く。
意識も。
変だな――後ろには壁があるはずなのに……
なんで、あたらない、んだろう、か――――
意識が完全に落ちてしまう前に、僕はもう一度彼女の姿を見た。
その表情はまるで――――