371日目
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時…………」
春休みも残り僅かというタイミングで僕は親戚の葬式に足を運んでいた。
親戚と言っても僕は彼のことを見たことも無ければ知りもしない。
だから、身内には悪いが他人事の様に思えて仕方が無かった。
スーツを着るのは大学の入学式以来だから、何とも落ち着かない。
服装もそうだが、この空気は耐えがたい。
それでも僕の焼香の番が来れば、前の人の真似をし、死者を弔うふりをした。
写真の中のオジサンは疲れた顔で僕を見ている。
歳は僕の両親より上なのだろか?
興味本位で棺を覗いてみたが、顔が白い布に覆われていた。
祖母の葬式では、たしか顔を見れたと思ったのだが、これは宗派か何かの違いなのだろうか?
窮屈な葬儀が終わり、その後は親戚会である。
親戚同士ということで当然、顔見知りのおじさんやおばさん。従姉妹たちがいる。
だが、僕と同じぐらいの歳の子はいないので、僕は両親と共に席についていた。
酒が入ると会場は騒がしくなる。先ほどまで冷え切っていた空気が180度変わり、ここはとても陽気で温かい。
死者の弔いなど忘れ、彼らは楽しそうに昔話に華を咲かせる。
酒を進められたが、僕は殆ど飲まなかった。
チューハイなどは飲むが、ビールを飲む習慣はない。
それなのに親戚の中には僕に無理やり酒を進めてくる人もいるのだから困る。
僕はまだ20になっていないというのに……
会が始まって一時間。料理も殆ど無くなった頃、父が珍しく自分から僕に話しかけてきた。
「なあ、晃。そろそろ、話してくれないか」
「なにを?」
「あの話だよ――――ほら、一年前の」
「ああ」
いつもは大人しい父なのに今日は酒が入っているせいか、積極的だ。
僕は少し迷ったが、話すことにした。酒の席だし、もしかしたら冗談と思われるかもしれないが。
春野 瑛子さんを見つけてから、しばらくの間、僕は大変な苦労をした。
まず厄介だったのは警察の事情聴取。
彼らは、なぜ死体を見つけられたのかとしつこく質問してきた。
面倒臭くなりありのままを話したが、彼らは信じてくれなかった。
そればかりか、僕が犯人と繋がりがあるのではないかと疑われる場面もあった。
馬鹿みたいだろう? 24年も前の事件だというのに。
結局、マスコミ向けには壁に血液が染み出してきた、とか、異臭がするとかで隣の隣人が
気が付き110番したと発表された。
手柄を横取りされたようで少し悔しいが、実名などは出されなかったし、僕の生活に支障が出なかったのだし、
結果オーライだ。
それに、嬉しかった事がある。
僕は春野さんの葬式に呼ばれた。彼女の両親は皺だらけの顔をクシャクシャにして僕に何度も感謝を述べた。
泣き顔の後の笑顔は忘れられない。
仏壇の彼女は笑っていた。
僕は彼女の願いを叶えてやった。それにどんな意味があるかは分からない。
けれど、彼女自身、両親、少なからず3人を笑顔にすることができた。
これだけでも無茶をした甲斐があった。
脚立を振りまわし過ぎて、骨折したなど恥ずかしい思い出ができてしまったけど。
彼女は再び、僕の前に姿を現す事もなく、アパートでは平穏な時間が過ぎている。
僕は父に話した。ありのままを。
父は大人しく聞いてくれたが、表情はどこか険しかった。
「なあ、春野さんは、それで救われたと思うか?」
「えっ?」
「殺され、埋められ、やっと外に出してもらった。確かにお前は彼女の願いを叶えた。じゃあ次は彼女は何を望む?」
「天国に行くこと……かな?」
そんなことを考えた事はなかった。彼女は解放され、俗に言う成仏をしたと思っていた。
「晃は優しいな。俺なら復讐を考えるが――」
僕は思い出した。テレビの中に映った映像を。
今でもあの光景は目に焼き付いている。
彼女の味わった屈辱、痛み、憎しみ――――
確かに、晴れる訳はないだろう。
「まあ、怨霊が存在するなら、復讐されているかもな。犯人は」
「そうかもね…………」
トイレが近くなり、僕は会場を出た。トイレに行くには葬儀場を通らなければいけない。
そこである会話を耳にしてしまった。
話し手はオジサンの妻と子どもらしい。
「結局死因は何だったんだろうな?」
「自殺ということになっているけど…………」
「親父は最近病んでいたのか?」
「確かに、警察を退職して、家で暇をすることが多くなったけど――」
「そうだよな。あの親父が自殺なんて」
「違うの、聞いて」
夫人の声はとても震えていた。表情も何かを恐れているようだった。
「自殺という事になっているけど、おかしいの」
「なにが?」
「何かに殺されたのよ」
「はぁ?」
「分からないわ。わからない…………私があの人から目を離したのは、ほんの数分」
「ああ、聞いたよ」
「けどあの人が発見されたお風呂場には施錠もされていて、密室だったのよ」
「だから、自殺なんだろ?」
「じゃあ、自殺でどうしてあんなひどい事になっているの? 心臓がないのよ!」
「お袋、落ち着けって。声がでかいよ」
僕は背筋がゾクりとするのを感じた。
彼らの立ち話を聞いただけであるのに、何か分かった気がするのだ。
警察、不可能な自殺、遺影に映る顔――――
「俺なら復讐を考えるが――」
先ほどの父の言葉が浮かんだ。
そうか。彼女は――――
思考の間に、僕の後ろから足跡が聞こえてくる。
立ち聞きしていたとばれるのは気まずい。
僕は何気ない顔をし、トイレへと向かった。
鏡を見ながら息を整える。
僕は随分、怯えているらしい。顔の血色が明らかに悪くなっている。
僕は水道の水を手で救い、顔を洗った。
どうして怯えているのか自問自答をする。
そうだ。僕が彼女――春野 瑛子を解放したから人が死んだのだ。
いや……そんなこと以上に、自分の親戚が彼女を殺したという事実の方がショックであった。
やるせない気持ちを抱えながら、僕はトレイから出た。
葬儀場にはあの夫人も息子もいなかった。
変わりに誰かが椅子に座っている。ずいぶん髪の長い人だ。
彼女は俯き、肩を震わせている。
泣いているのだろうか? いや――
「くくくくくく」
小さく洩れる声は嗚咽ではない。
彼女は笑っているのだ――――
何が可笑しい? 死んだ人の前で。
なぜ、彼女は――――
僕はそっと彼女に近づいた。
「晃さん。いらしてたの」
「えっ?」
僕は困惑した。彼女は振り返りもせずに僕が誰だか当てた。
それに僕の名前を知っているという事は、彼女は僕のことを知っている。
「あなたは――――」
「お久しぶり」
「あ――――」
僕は絶句した。
そこには彼女が居た。春野 瑛子が。
「幽霊でも見たような顔ね?」
「あ、ああ…………」
彼女は笑う。美しい笑顔だというのに、僕は微笑み返せなかった。
その上機嫌の仮面の下には考えられないほどの狂気が渦巻いている。
「僕を――――殺すのか?」
「なんで?」
「僕はこの人と血のつながりがある……」
「まさか、私がここに来たのは貴方に感謝をしたくて」
「感謝?」
「ええ。なんたって、殺すチャンスをくれたんだから」
笑顔を浮かべる彼女の顔は一瞬歪む。それは僕が見た、腐りきった死体の姿だった。
「ゾクゾクしたわ。さして、さして、さして、さして、さして。ぐちょぐちょぐちょぐちょ――――」
僕は耳をふさいだ。目も閉じた。
聞きたくない――――見たくない――――
「悲鳴をあげたわ。何度も何度も何度も。豚みたいにぶひぶひぶひぶひ――――」
「止めてくれ…………」
「そして死んじゃった。死んだの。もう死んだ。死んだ。死んだ。死んだ死んだ」
「止めろっ!」
僕は耐えきれず、怒声を上げる。思わず開けた目の前には彼女がいた。
死体だ。死体の春野 瑛子が。
「喜んでくれないの? ケタケタケタケタ――――」
彼女の口からは笑い声の代わりに、顎骨の当たる音が出た。
「そうだ。貴方にこれを――あげる。あいつの大事なだいじな、だいじな――」
彼女は自分の腐りきった胸元に枝のような手を突っ込み、小さな小箱を取りだした。
ドロドロに囲まれた赤い箱からは、酷い悪臭がした。
「お礼――――私はいかなきゃ。ころすの。ころすの。ころすの。ぎゃははははっはははは」
そこで僕は気を失った。
起きた時には葬儀場の床に倒れていた。
夢だと思いたかった。
しかし、僕の手には先ほどの赤い小箱が握られていた。
中身は見ていない。わざわざ見たくはないから――――