5話 躊躇
卵の鎮座する台座の裏に置いてあったスポーツバッグの底のほうからタオルを引きずり出していると、再び強い風が吹いた。
「何をなさっているのです?」
耳に心地よい落ち着いたアルトの声が突然響いた。その声の主がいつの間に現れたのかはぜんぜん気が付かなかったため、思わず体がびくっと反応してしまった。
人の気配に鈍感ではないはずだが、いきなり真後ろに立っていた飼育係にも気が付かなかったし、自分では自覚していないだけで実は鈍いのかもしれない。これまで闇の精霊がほとんど傍に付いていて、唐突に現れる精霊たちに彼が先に気が付いたのでそんなことは感じなかったのだが…あまりにも鈍いので見るに見かねて教えてくれていたのかもしれない。
少しへこみながらタオルを手に振り返れば、台座の下から飼育係の濡れた足元の近くに白い衣が近づいてきていた。ここからでは足元しか見えないが、髪を足元まで長く伸ばしているようで、束ねた青い髪が尻尾のようにゆらりゆらりとゆらめいているのが見える。
精霊たちを先に見ていたのでそこまで驚かなかったが、どうやらこの世界の住人も精霊たちと同じようにカラフルな髪の色をしているようだ。光の精霊は金、闇の精霊は黒、火の精霊は赤、水の精霊は青、土の精霊は茶、風邪の精霊は淡く緑がかった銀色の髪と瞳を持っていた。初めて会ったときに地球上では見ることのなかったその色とりどりの髪と瞳の色をした彼らに、驚いたのと同時に異世界だなぁと実感したのは記憶に新しい。
もしかしたら、金髪の飼育係は光の、新たにやってきた青色の髪の人物は水の属性を持つのかもしれない。
「この場所で遊んでいる暇はないはずですが」
落ち着いた中にも優しさを滲ませたその響きで、その声の主が飼育係と親しい間柄であろうことが容易に推測できた。そのため、なんとなく空気を読んでしまい、姿を現すのを躊躇ってしまう。
「ぎょるるるる!!ぎゅぐるる!!」
しかし、生まれたての爬虫類に空気を読むスキルは備わっていなかったようだ。二人のほんわかとした空気をぶち壊すような、爬虫類のまったく可愛くない鳴き声と同時に、飼育係の激しく動く衣擦れの音が聞こえてきた。
「うわっ!!なんだ?」
どうやら爬虫類は飼育係の腕の中で激しく暴れているらしく、それを落とさないように抱きとめているようだ。
「幼竜?まさかそんな!?」
鳴き声が聞こえた途端に飼育係の元へ駆け寄ってきた青髪の人が、信じられないと言わんばかりに驚きの声を上げる。
「見慣れぬ子供が卵石を抱いていた。探せ」
青髪の人の驚く声に被せるように飼育係が命令する。
一瞬、どこかに子供がいたのかと思いきょろきょろ辺りを見回してしまったが、子供の姿はどこにもない。
―――見慣れぬ子供って私!?
状況から推測すると私のことを指している可能性も考えられるが、とっくの昔に成人式は済ませて四捨五入すれば30歳になる身としては自分の事を指しているのか自信がない。確かに海外に出ると日本人は総じて若く見える例に私も洩れてはいないが、さすがに子供に間違えられたことはない。精々、成人前後だ。それに、探せもなにも私は隠れてはいない。タオルを取り出すためにスポーツバッグのところにちょっと移動しただけだ。あの二人からは、実質2mも離れていない。自分が出て行って、お前じゃないよ子供を捜しているんだよ、みたいな視線を向けられたら恥ずかしくて立ち直れない気がする。
「その者の特徴は?」
「肩までの黒髪に、大きさはちょっと小さめ」
出て行くべきか、ここで状況を見守るべきか判断がつかないままタオルを握り締めていると、青髪の人物の声に応えるようにして後ろから新たな声が聞こえてきた。やはり、今回も欠片も気配を察することができずにびくりと肩を強張らせてしまう。
「そうだ」
「お嬢ちゃんの目の色は…珍しいな、黒か」
ぐいっと肩を引かれ仰け反った視線の先に赤い髪の男がいた。