4話 孵化
「何者だ?」
カツカツと背後からこちらに向かって近づいてくる靴音が建物内に反響する。
誰何の言葉が聞こえてはいたが、私はひびの入った卵を抱えて振り返ることもできずにただ立ち竦むことしかできなかった。というよりも、少しでも動いたら、卵が割れてしまいそうで動くに動けなかった。
「貴様、言葉が聞こえぬのか?」
苛立ちを含んだ声色にごくりとつばを飲む込むと、腕の中で再びピシリという音が聞こえた。恐る恐る腕の中を伺うと、広がった卵のひびの隙間から覗き込む爬虫類と再び目が合った。先ほどまで卵がぐらぐらするほど暴れていたというのに、なぜか今は私と同じようにぴたりとその動きは止まっている。先ほどまでの状態の違いに、狐につままれた気分で数回瞬きをすると、爬虫類も同じ数だけ瞬きして返してきた。
妙に自分とシンクロした爬虫類の動きに軽く親近感を覚えて、瞬きのコミュニケーションを思わずとってしまったのは、自分の置かれた状況も忘れたからではなくて忘れたかったからだったけど…
その時、私の髪が、不意に吹いた強い風に靡いた。
「何を持っている」
怒気を孕んだ男の声が、私のすぐ背後で聞こえて驚いた。
先ほどちらりと見た扉は、かなり遠い場所にあった筈だ。それこそ全力で走ってきたとしても、声が聞こえてから今に至るまでの短時間でここに辿り着くはずがない。
しかし、今はそんなことを考えている暇はなかった。いつ割れてもおかしくないくらいにひびの入った卵を何とかしなければならない。
「パス」
そう考えた私はすばやく振り返ると、背後の男(おそらく、爬虫類の飼育係)に腕の中の卵を手渡した。
◇◇◇◇◇
「きゅるるる」
透き通った氷の割れるような音と、水風船の割れたようなぱしゃりという水音、そしてそれらに一瞬遅れて、卵から孵った爬虫類の小さな鳴き声が建物内に反響した。
…よし、成功…
いきなり渡されたひびの入った卵を飼育員の男が危なげなく受け止めた瞬間、その表面のひびが中を覆い隠すほどに広がり卵は割れた。
遅かれ早かれ卵は割れていただろうが、素人である自分の手の中で割れるよりも飼育員の腕の中で割れたほうが対処もしやすいだろうととっさに判断した結果の行動だった。そのときはそれが一番ベストな方法であると考えていたが、冷静に考えれば卵が置かれていた台座に置いたほうが卵としては安全だったと今更ながらに気が付いた。
「生まれただと?バカな、確かに宝卵になった筈」
落とさなくてよかったと内心冷や汗を流している私の前で、飼育員と思われる男がひどく驚いた顔をして、生まれたての爬虫類を抱いていた。
飼育係はやけにきらきらとした男だった。端正な顔には黄金の瞳が収まり、癖のある硬そうな金髪が顔の周りを彩っている。背の高さは2mはあるだろうか。黒のズボンに膝まである上着を身に付けており、服の上からも逞しい筋肉の存在が見て取れた。
…しかし、その恰好は爬虫類の飼育には向いていないんじゃないかな…
10人中9人は格好良いと評するであろうその飼育係が身に纏っている上着は、金糸により細かい刺繍が施されている。彼の腕の中にいる爬虫類は鋭い爪を持っており、その装飾を簡単に解れさせるだろうことは想像に難くない。しかも、よりにもよってそのベースの布は汚れやすい白色だ。事実、割れた卵に中に入っていた赤く透明な液体をその裾からぽたぽたと垂らしている。
しかし、飼育係はその事には全く頓着していない。というか、孵化した爬虫類に夢中で気が付いていないようだ。先ほどから、感動の対面を邪魔するのも悪いかと話しかけるタイミングを計っているのだが、爬虫類の飼育にかなり熱心なようで全くその隙が見当たらない。
…しょうがない、何か拭くものを持ってこよう…
飼育係の卵に服が汚れた原因は、どう考えても私が割れかけの卵にを手渡したからである。その事に多少の後ろめたさを感じて、タオルを渡そうとスポーツバッグの方に足を向けた。