告白は手紙にのせて
美世の母親は、美しい人だった。
美しいどころではない。頭には完璧の二文字が輝く、絶世の美女であった。
それに比べて、俺はクタクタになったシャツにデニムに白衣という、一歩間違えれば浮浪者に間違われる外見である。
時間がないからと仕事着のまま走ってきた浅はかな自分を、今更ながらに恨む。
「お医者様ですか?」
母親は俺に尋ねた。
「高校で保険医をしています」
「駅前の高校ですか?」
「ええ、駅前の高校です」
「美世が通っていた、高校ですね」
声音が、変わった。
射るような、刺すような、鋭くとがった声音が俺に向けられる。
「はい、美世と出会った高校です」
直後、美世の母は俺の顔に水をぶっかける。
「あらやだ、手が滑りましたわ」
わざとだ。絶対わざとだ。
「パパ、ハンカチ貸したげる」
頭からしずくを垂らす俺を、隣に座る息子が差し出したのは美世の形見の花柄のハンカチ。
「・・・・・・息子さん?」
息子の手からハンカチを受け取りながら、俺はうなずく。
そして同時に覚悟する。
次は何だ、ジュースか?コーヒーか?それとも熱々のステーキか?
「・・・・・・名前は?」
「シゲル、です」
降ってくる物は何もない。
「美世が、付けました」
飛んでくる物は何もない。
「良い名前ね」
母親は泣いていた。
化粧が落ちてしまうのではと心配になるほど、ボロボロに泣いていた。
「ハンカチ、使いますか」
俺が差し出したハンカチを受け取り、
「びしょびしょじゃない」
と、彼女は小さく笑った。
【告白は手紙にのせて】
美世と出会ったのは6年前だ。
俺は新任の保険医として彼女の高校にやってきた。
男の保険医は珍しいらしく、はじめの頃は女子生徒にちやほやされていたが、俺のだらしない性格は折り紙付きで、両手に花だった時期は短い間の物。
ついつい下ネタを口にしてしまう小学生並みのギャグのセンスも合わさって、気がつけば女子生徒よりも男子生徒が周りに集まるようになっていた頃、俺は美世の名前を覚えた。
「眠い」
そう言うなり、勝手に保健室のベッドを占領した少女が美世だった。
「せめて仮病くらいつかえ、腹が痛いとか気持ち悪いとか、なんかあんだろ」
思わず俺が声をかけると、「じゃあ生理痛で」と恥じらいもなく言って、美世は毛布を頭から被ってしまった。
それが出会いだった。
「眠い」「じゃあ生理痛で」
色気も何もない二言が俺たちの始まりで、その出会いからほぼ毎日、美世は毎日保健室にやってきた。
やっぱり毎日「眠い」を合い言葉に現れ、人の話を聞かずにさっさとベッドにはいる。
あまりに躊躇いがないその態度に、俺は彼女の行動を深くとがめることもなかった。
「あ、美世ちゃん?あの子のさぼり癖はいつものことだから」
彼女の担任もそんなことを言う。
「まあ成績も良いし、さぼるって言っても体育の時間だけでしょ。全く学校に来ない子も多いし、それを考えると怒るに怒れないんだよねー」
担任は投げやりだった。
しかしそれをとがめる教師も他にいなかった。
そもそも俺自身、美世の話題を出したのは世間話の延長で、彼女を更生させるつもりはなかった。
そんなこんなで、出会ってから半年、美世は「眠い」を繰り返し続けた。
それが一変したのは、美世が3年生の冬。2学期の終わりの事である。
「先生、お金持ってる?」
「お前よりはな」
そう答えて、俺は思わず薬品棚を整理していた手を止めた。
「さぼりに来たんじゃないの?」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「それがお金のことか」
「うん、先生実はボンボンだって松崎が言ってた」
「ボンボンじゃねーよ」
「でも、父親から莫大な遺産を受け継いだって」
「莫大じゃねーよ。たしかにまあ、同じ年代の男よりは多少金持ちにはなれたかもしんねぇけど」
「それ、なんにつかうの?」
聞かれて、俺は黙り込んだ。
親父が死んだのは1ヶ月くらい前のことで、遺産の話が出たのは先週のことだ。
母親は既になく、息子も俺しかいない。遺産の受取手が自分になることは分かっていたが、たいした金額ではないとタカをくくっていた。が、予想以上に額は多かった。
ただのサラリーマンだと思っていたが、その収入は俺の予想を斜め上に行っていた。
その上母親が死んでからの親父は俺の上を行く面倒くさがりの出不精だったから、金を使う機会もなかったのだろう。
その結果がこれだ。使い道のない金を稼ぎ、挙げ句の果てにガンであっけなく死んだ親父。無駄な金を稼ぐ暇があるなら、手遅れになる前に病院に行けば良かったのにと思うが、その言葉を伝える相手はすでにいない。
「ねえ、何に使うの?」
人の気も知らず、美世は何度も何度も聞いてくる。
「決めてねぇ」
思わずムッとして言い替えしたとき、俺は初めて美世の笑顔を見た。
「じゃあさ、私と結婚してくんない?そんで、子供作って、私共々養ってよ」
意味が分からなかった。
なのに、美世が高校を卒業した春。美世の腹には俺の子供がいた。
「生徒に手を出すなんて最低」
そう言われるのが怖くて、俺は誰にも結婚の事を告げなかった。
そもそも、美世の妊娠の原因は俺にはない。いや、あると言えばあるが、別に俺の方から襲ったわけではなかった。
俺の自宅を調べ上げ、何の前触れもなく襲いに来たのは美世の方だった。
理性が効かなくなった頭でゴムだけは付けたのに、それに穴を開けやがったのは美世だった。
「既成事実って、作ったもん勝ちよね」
母子手帳を得意げに見せた美世が、その時の俺には悪魔に見えた。
妊娠が発覚してすぐ、美世は学校を卒業した。
美世は決まっていた大学を蹴って、俺の部屋に転がり込んだ。
こうなってしまっては責任を取らなくてはならない。それくらいはいくら俺でも分かっている。
だから両親に合わせろと迫ったが、嫌だとごねられた。
「いやじゃねーよ。ここまで好き勝手やっておきながら、今更怒られるのが怖いとか言うな」
「いやだったらやだ!」
「じゃあお腹の子供おろせ。今なら俺が全部ひっかぶってやるから、自分の人生犠牲にすんなよ」
「犠牲になんてしてない、全部自分で決めたんだもん」
「じゃあ親に会いに行くぞ。決めたんだろ」
「私は、先生と駆け落ちする人生を生きるって決めたの!だから行かない」
どんなへりくつだ!
と、何度怒鳴りつけたかは分からない。
しかし最後まで美世は折れなかった。結局は俺が、「子供が生まれたら、行く」と言う言葉に折れた。
「とりあえず上がって。今替えの服持ってくるから」
3LDKの安アパートに、自分の男以外の男を入れたのは初めてだった。
お邪魔しますと上がり込むその男は、娘の自称旦那で、その傍らには娘の子供までいる。
男と会う事になったのは、死んだ娘からの手紙がきっかけだった。
娘からの手紙が届いたのは1週間前、そこには自分が亡くなってから5年後ママの誕生日になじみの喫茶店に来て。とだけ書かれてあった。
死ぬ前に書いたその手紙を、わざわざ日にちまで指定して届けさせたのだから、一体どんなプレゼントをくれるのかと思ったら、やってきたのはこの男。
だらしのない風体で、年齢の割に若々しさもなく、息子の方がよっぽどしっかりしていそうだ。
一体何者かと尋ねるやいなや「美世の旦那です」とか言い出す物だから、本気で殺してやろうかと思った。
「おばちゃん、トイレ何処ですか」
男が隣の部屋で着替え手いる最中、彼の息子が私にそう言った。
「廊下の奥にあるから」
「ありがとうございます」
幼い外見に似合わない礼儀正しい言葉使いに、私は更に男へのいらだちを強めた。
絶対、あの男は息子を苦労させているに違いない。そうでなければ、あんなしっかり者の子供が出来るわけがない。
「隆司さん、ちょっといいかしら?」
だからこそ、私は復讐を思いついた。
「あ、まだ着替えが」
そんな言葉に構う物かと、私は隣の部屋と居間を仕切る襖を開く。
部屋の中央では、私が手渡したシャツに腕を通しかけた男の姿。
「ちょっ、まだですって!」
「いいのよ、どうせ脱ぐんだから」
言って、私は男に近づき、その体を押し倒す。
腕力には自信があった。
そして何よりも、私に迫られて今まで落ちなかった男はいない。
押し倒せばこちらの物だ。
「お、お母さん?」
「償い、するつもり出来たんでしょ?」
男の腕に引っかかっているシャツをはずし、あらわになった首筋に舌を這わせる。服の下はたるんだ贅肉の塊かとおもいきや、意外に筋肉がしっかりついている。着やせするタイプが好きだと熱く語っていた美世の笑顔を思い出し、私はいらだちを紛らわすために男の腹に舌を這わせた。
男は身をよじったが、やめるつもりはない。
後悔させたかった。
私に会いに来たことを。美世の名前を口にしたことを。
「おかあさん・・・」
「黙って」
罰を与えたかった。
私の知らないところで、美世を汚したことを。
あの子は私の宝だったのだから。
「・・・親子って似るんだな」
親子。その言葉に、私は思わず動きを止めた。
「全く同じ体制で、襲われました。美世さんに」
襲われた。そんな嘘を今更信用すると思うのか。
「嘘じゃないですよ。嘘じゃないからシゲルが生まれちゃったんです」
息子の名を呼ぶ男の声は、父親の声そのもので。
「あのときは俺も若くて、こらえしょうがなくて、まさかゴムに穴開けられてるとも思わなくて」
美世ならやりかねない。思わずそう思ってしまったのは、美世の強引な性格が自分譲りであることを思い出したからだ。
「まあ、今更の言い訳ですけど、俺の方にそんなつもりはなかったんですよ」
男は言いながら、私の体を優しく遠ざける。
「だって、年下ですよ。初めて抱いたとき、相手高校生ですよ。それに・・・」
少し照れくさそうに頭をかいて、
「惚れてたんですよ。ロリコンかよ!って、自分で突っ込んじゃうくらいに」
男はそんなことを言う。
愛しい相手を思い出す表情で、そんなことを、男は言うのだ。
「お母さんには悪いなって思ってました。でも、美世に逆らえなかったんです」
男が身を起こし、先ほどまで来ていた自分の服の下から一通の封筒を引っ張り出す。
「シゲルが5つになったら渡してくれって、美世に頼まれたんです」
受け取って下さいと言われる間もなく、私は男の手から手紙をひったくった。
表に書かれた『ママへ』の文字は紛れもないあの子の物で、私は震える手で封筒を破った。
「ねえ、先生」
シゲルの出産が間近に迫った冬の夜、美世と交わした言葉を俺は今でも一字一句大切に覚えている。
築39年のぼろアパートの狭い居間で、美世と並んでテレビを見ていた時のことだ。
「私のお母さんね、凄く酷い人なんだよ」
「まあ、お前の母ちゃんじゃしかたねーよ」
「・・・殴るよ」
殴ったあとで、今更のようにそんな台詞を言われた。
「私のお母さんね、すんごい美人なんだ。もうね、色々な意味で完璧なの。顔も整ってるし、胸も大きいし、髪の毛もさらさらだし」
「それ、ホントにお前の母ちゃんか?」
そこで、もう一度殴られた。
「会った人みんなが、虜になっちゃう外見なの。ホントに」
「そりゃあ、一回見てみたいな」
「会わせないよ」
「なんだよ、子供が生まれたら挨拶に行くっていったじゃん」
「先生とは会わせない」
「なんでだよ」
「とられるから」
「は?」
と返した俺に、美世は真面目な顔でいった。
「うちのお母さん、年下大好きなの。だから私の彼氏、みんな取っちゃうの」
「そんなまさか」
「嘘じゃないよ、中学生の時に付き合ってた良夫君でしょ、高校の時の祐二君に守君」
「守君って、あの甲子園に行った野球部のか。あんなごついのと付き合ってたんだ」
「でも取られちゃった・・・。お母さんがいないうちにと思って家に呼んだんだけど、私がコンビニにアイス買いに言っている間に、間が悪くさぁ」
「間が悪く、何?」
「・・・寝取られた」
返す言葉が、なかった。
「家に帰ったとたん、リビングのソファーの上で重なってるの見ちゃってさぁ」
「へ、へぇ・・・」
「そのくせ、彼氏を追い返したあとで必ず、美世の子供の顔見るのが今から楽しみぃとか嫌味っぽく言うのよ」
ふくれ面でそう言って、美世は俺の体に腕を回す
「だからね、実はこれは復讐なの。孫の顔が見たいなら見せてやるよってかんじ」
「俺は復讐の道具かよ」
「そうよ、先生なら私がいなくなったあともシゲルのことちゃんと見ててくれるだろうし、お母さんの魔の手もなかなか伸びないだろうし」
「いなくなったあとって、産み逃げする気満々なわけ?つーか、シゲルって誰?」
「この子」
美世が、笑顔でお腹をぽんと叩く。
「もう子供の名前考えてあるのかよ」
「だって、あとで決めてる時間無いかも知れないし」
「そんなに早く逃げるつもりかよ」
「だって、産んだらすぐ、私死んじゃうもの」
さらりと、美世はそう言ってのけた。
冗談だと思った。美世のお得意の、全然面白くないギャグの一つだと思った。
「冗談じゃないよ。それに、つまんない携帯小説とかでもないから」
「お前」
「もうね、お医者さんに出産の許可取るの大変だったんだよ」
そういって、すり寄ってくる美世を、俺は思わず引き離した。
「マジ、なの?」
「うん」
「そんなこと、何で今まで黙ってたの」
「だって、真面目な顔してるときの先生、嫌いなんだもん」
もんじゃねーよ。可愛い子ぶったってダメだよ。先生怒るときは怒るぞ。
そんな、いつもならば出てくる無数の言葉が、その日は一つも出てこなかった。
「怒った?」
美世が、今更のように訪ねてくる。
少しだけ不安そうな顔で。
「ねえ、怒った?」
怒れるわけなかった。
だから変わりに、俺は初めて言った。
「惚れた」
美世が、驚いた顔で俺を見た。
「でも、結婚はしてやらねーよ。俺はバツイチなんて嫌だからよ」
「先生も、お母さんと同じくらい酷い男だ」
「でも、酷い男大好きだろ?母ちゃんの事だって、ホントは大好きだろ?」
美世が、笑顔でうなずいた。
「ホントはね、死ぬ前に孫の顔見せてあげたかったの。でも、下手に手を打つと取られちゃうわけよ」
「あー、なるほど」
「だからね、色々計画したの」
「その計画に最適だったのが俺だったわけね」
「うん」
「別に惚れてたわけじゃないんだ」
「でもね、先生じゃなきゃ実行してなかった」
「それはお金的な意味で?」
「うん、お金的な意味で」
最後まで、美世は俺のことを、一度も好きとは言ってくれなかった。でも、すがりついてくる体が小刻みに震えているのを見ないふりも出来ず、俺は黙って美世を抱き寄せることしかできなかった。
「ちゃんとね、自分の死んだあとのこととかも考えてあるから、私がいなくなったら、先生それを実行してね」
つまるところ、俺は最後の最後まで道具だったわけだ。
手紙を渡し、美世の母親の家を出た俺は、ぼんやりとそんなことを思った。
シゲルは母親の所においてきた、それが美世の指示だった。
シゲルを産んですぐ、美世はこの世を去った。正確に言えば、美世は死ぬ間際、俺の元を去りあの母親の元に返ったのだ。
「ごめん、家出してた」
母親が言うには、その一言しか彼女は語らなかったらしい。
いや、多くを語る余力が美世は無かったのかも知れない。
美世は母親の元で死んだ。俺と過ごした1年のことを無かったことにして。
俺に残されたのはシゲルと、3つの約束だけだった。
『約束1、私とのことは絶対誰にも言わないでください』
『約束2、シゲルが5つになるまでは先生が面倒を見てください』
『約束3、5年後の7月、シゲルを連れて私の母に会ってください』
5年。俺はこの約束を守り続けた。
そして今日、3つ目の約束を俺は果たした。
今度こそ、本当に何もなくなってしまった。
寂しさすら感じない空っぽな気持ちで、俺はもう一度、美世の笑顔を思い出した。
『ママへ
この手紙が届いている頃、私はもうこの世にはいないでしょう。
本当はそんなありきたりな書き出しで始めたくはなかったけれど、他の始め方も思いつかないのでそう書きます。
私が家出した1年のこと、きっともうママは先生から聞いたよね。
先生は、「坂田隆司さん」は私の旦那様です。結婚は出来なかったけど、そもそも私のことを愛してくれていたかどうかはよく分からないけど、あの1年間は、私は先生の奥さんでした。
先生に会う少し前くらいから、私は体調を崩すようになりました。
誰にも心配かけたくなくてこっそり病院に行って、そこでいきなりドラマでありがちな「あなたの余命はー」みたいな話をされました。ガンなんだってさ、若い人が掛かる治らないガン。
正直信じられなかったけど、出された薬の量に、私は全てが夢でないことを知りました。
でもママには言えなかった。その時は死ぬことよりも、ママが悲しむことが怖くて、お医者さんに土下座してママには黙っていてもらいました。
そんな反面、一人で自分が死ぬことを考えるのは辛かった。
学校にいるときも、家にいるときも、私は一人でふるえていました。
そんなときに、出会ったのが先生でした。
といっても、運命的な出会いをしたわけでも魅力的な言葉をかけられたわけでもありません。
正直に言うと、一目惚れです。
先生はとても駄目なオーラの人で、オーラだけじゃなく実際ずぼらで、面倒くさがり屋で、子供っぽい人です。
でも、私が保健室で寝ていたとき、先生はいつも側にいてくれました。
先生は仕事のあるなしにかかわらず、こっそり煙草を吸いにいったり、屋上で暇つぶしの読書をするような、どうしようもない人でした。でも、私が寝ているときは、必ず保健室にいてくれました。
保険医だから当たり前なのかもしれないけど、その当たり前に、私は恋をしました。
叶わぬ恋のはずでした。
でも、どうしても叶えたい恋でした。
自分の病気のことは使いたくなかった。同情で叶う恋はいやだった。
だから私は、ママの「願い」を利用しました。
ママは、私の子供を見たいっていつも言ってたよね?自分の行為を棚に上げて。
自分の心のままに行動できない私は、死ぬ前にママの願いを叶えると言う理由で、先生に近づきました。
好きだと言えない変わりに、責任を取れと脅迫しました。
お互いの気持ちの話しになるたびに、養育費の話題で誤魔化しました。
そして、何とか出産までこぎ着けることが出来ました。
正直、こんなに上手く行くとは思いませんでした。
だから今は、少し後悔しています。
ひとつ目の後悔は、この1年ママを騙したこと。そしてこれからシゲルが大きくなるまで、私はママを騙し続けることです。
本当は生まれてすぐママに引き合わせてあげようかとも思ったけど、もしそのあとすぐ私が死んだら、自分勝手なママのことだから、先生からシゲルを取り上げるでしょ?
その上、復讐とか言って先生のことも寝取っちゃいそうだから、先生がママ好みの若い男でなくなるまでは・・・。
そしてシゲルが先生のことを「パパ」と呼ぶまでは、会わせるのをやめようと思います。(可愛い孫にパパと離れたくないっていわれたら、さすがのママも鬼にはなれないでしょ?)
勝手でごめんなさい。でも先生とシゲルだけは、ママには取られたくないんです。
あともう一つの後悔は(ママにだけはいうけど)、先生に一度も好きと言えなかったことです。
これを書いてる間にも、自分が弱っているのが分かるのに、時間が少なくなっていくのが分かるのに、私は未だに先生に好きだと言えません。
今更だけど、拒まれるのが怖いです。
もし先生に拒まれたら、私、きっと死んでも死にきれないと思うから。
だからもし、この手紙を読んで、それでもまだ自分勝手な娘を愛してくれるなら、三つだけお願いがあります。
お願い1、私の代わりに、シゲルのママになって下さい。先生は良いパパになると思うけど、それでもママは必要だと思うから。
お願い2、辛いかも知れないけど、シゲルに先生のことをパパと呼ばせてあげてください。
あともう一つ、とても図々しいお願いではあるけれど、私の「好き」を先生に届けてください。
ママに取られたくないって、心から思った、初めての人なんです』
男が消えた部屋で、私は美世の手紙を読んだ。
「なによ、ママへの手紙かと思ったら、半分はあの男へのラブレターじゃないの」
悔しさの所為か、それとも美世の心にようやく触れられたからかは分からない。でも気がつけば、私はボロボロ泣いていた。
美世が何かを隠していたのは分かっていた。
「いつか教えてあげる」
死ぬ前に告げられた言葉に、私はずっといらだっていた。死んだらいつかなんか来ない、結局は親の甘さをつけ込まれ優しい言葉で距離を置かれたのだと、美世のことをずっと恨んでいた。
なのに、彼女は全てを用意していた。
私へのフォローはもちろん、大切な贈り物まで残してくれた。
自分が伝えたい言葉は、何一つ言えなかったくせに。
「おばちゃん・・・」
気がつけば、シゲルが側にいた。
「パパは、パパは何処ですか?」
初めて見る泣きそうな顔は、幼い頃の美世にそっくりだった。ギリギリまで涙をこらえる目元、嗚咽を漏らすまいとするように、引き締められた唇。
泣き方まで母親似の孫の姿を、気がつけば、きつく抱きしめていた。
抱きしめるだけでなく、抱え上げていた。
「パパを、追いかけるわよ」
我ながら男らしい言葉を発し、私は家を飛び出す。
向かうとしたら駅前だ。そう見当を付け、私はシゲルを抱えたまま走り出す。
涙で化粧がグチョグチョになっていることや、引っかけたのがハイヒールではなくゴムサンダルあることは、もうどうでも良かった。
伝えなくてはいけない。
ただそれだけを思い、私は走った。
「待ちな!!」
突然、ドスのきいた声に呼び止められた。
どこぞのヤクザに絡まれたのかと慌てて振り返ると、そこにいたのはシゲルを抱えた美世の母親だった。
「あれ、お母さん・・・」
「あれ?じゃねぇよ、タコが!自分の息子置いて帰るたぁ、どういう了見だ?あぁん?」
先ほどの可憐な姿からは想像できない、低い声音に俺の背を嫌な汗が伝う。何なんだろうこの違和感は・・・。
「すいません。でもあの、それは美世の約束で」
「約束?」
「はい、美世からシゲルをあなたに会わせて欲しいって」
「そのうえ、置いていけって言われたのか?」
「そうじゃないですけど、その方がシゲルのためにも」
「ふざけたこと言ってンじゃねーぞ、この馬鹿野郎が」
気がつけば、俺は殴られていた。この言葉にかぶせた右ストレート、美世の拳にそっくりだ。
「お母さん?」
「・・・・好きだ」
「え、いや、あの・・・。年上の方はちょっと・・・」
「オレじゃねぇよ、美世が言ったんだよ!お前のこと好きだって!」
言葉とともに手渡されたのは、先ほどオレが渡した手紙。
読めと言われ、俺はそれを渋々目を通す。
そして、驚いた。
「これ」
「それが美世の気持ちだ」
「あの、でも・・・」
「今更オレの娘を嫌いだなんて言わせねぇぞ!責任とれ責任!」
責任なんていくらでも取るつもりでいた。むしろ取らせて欲しいとずっと思っていた。
愛されていなくてもいいなんて嘘だ。本当はずっと、美世の言葉を待っていた。
なのに言えなかった。わかりやすい好きの気持ちも、美世の気持ちを教えてくれとも、言えなかった。
「俺も、好きです」
「え、お、オレは年下はちょっと・・・・」
「お母さんにじゃないです」
思わずそう突っ込むと、美世の母親は少しばつの悪そうな顔をした。その表情は少し美世に似ている。そう思い、苦笑したつぎの瞬間、俺の予想の遥斜め上を行く台詞を、母親は口にした。
「お母さんじゃねぇよ」
「はい?」
「お父さんだ」
空気が、凍った。
それまでの感動的なシーンもろとも、俺の周りは氷河期に突入である。
「ちなみに名前はシゲルだ」
「じゃあ、美世は・・・」
「息子に親父の名前を付けるとは、なかなか感動的じゃねぇか」
そりゃああなたは感動的でしょうが、俺がこれからその名前を呼びづらいじゃないか、とは口が裂けても言えない。
それにしても、なんというか、
「複雑です」
俺の言葉に母親、もとい美世の父親は俺の肩をぽんと叩く。
「母親が、娘の彼氏寝取ってまで愛娘の処女を死守すると思うわけ?」
たしかに。
「一人っきりの娘でさ、本当に可愛いかったのよ」
その気持ちはいたいほど分かる。
「やりたくなかったんだよ、誰にも。だから酷いこと沢山して・・・」
「でも、美世は恨んでませんよ」
「・・・・・・」
「それに、あなたがいたから俺たちは出会って、シゲルも授かった」
美世の父親が、驚いた顔で俺を見た。
「あなたが美世の親で、良かった」
俺が言うと、父親が突然俺に抱きついてきた。
男だと分かった以上、正直心境は複雑だ。
しかし、大声で「美世」の名を泣き叫ぶ彼女の父親を、放っておくことも出来ない。
「やべぇよ、美世が惚れるわけだよ。俺も惚れそうだよ」
胸元から聞こえてきたその声は無視するとしても、隣で俺に笑顔で見ているシゲルの視線だけは交わせない。
「新しいお母さん?」
それだけはないから。それだけはあり得ないから。だから美世にそっくりな可愛らしい笑顔で、俺を見ないでくれ。
俺は心の底から願ったが、美世の父親が俺から離れるのには、まだ時間が掛かりそうだった。
それにしても、これから俺はこの人を、お母さんと呼べばいいのだろうか?それともお父さんと呼べばいいのだろうか?
※9/4誤字修正しました(ご指摘ありがとうございます)