**「1941~1942年:日ソ停戦交渉」**
■ 概要
**モスクワ陥落(1941年冬)**によってソ連は国家崩壊寸前に追い込まれ、
極東で釜山橋頭堡を相手に戦い続ける余力を完全に失う。
この結果、
ソ連が日本へ停戦を“求める”という、史実ではあり得ない構図が成立する。
交渉の主導権は明確に日本側にあるが、
それでも日本自身は国家的敗北の後であり、強気の姿勢は取れない。
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■ 1.停戦の必要に迫られたソ連(1941年末)
モスクワ失陥後のスターリン政権は以下の問題を抱える。
● ① 欧州正面が崩壊寸前
• ドイツ軍はモスクワを制圧し、さらにヴォルガ方向へ突破
• ウクライナ・白ロシアはすでに失陥済み
• 中央政府の統制能力が大きく低下
• 大量の将兵・飛行機・戦車を失い補充が不可能
この段階で「極東に百万近い兵力が貼り付いている」状況は致命的。
● ② 日本海軍による沿海州への継続攻撃
• ウラジオストク港は断続的な空襲・艦砲射撃で機能停止
• シベリア鉄道が補給不能に近い状態
• 極東正面への補給が完全に停滞
● ③ 釜山攻略戦が完全に膠着
• 陸軍が攻撃を繰り返しても釜山橋頭堡を崩せない
• 冬季戦でソ連側の損害は増大し、士気が低下
• 日本軍が新たに海軍陸戦隊・重砲を増派し、逆に戦力増加
極東戦維持の見込みが完全に消える。
スターリンは最終的に
「日本との戦争継続はソ連国家全体の崩壊を招く」
と結論し、停戦交渉開始を決断。
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■ 2.ソ連からの停戦打診(1942年1月)
外交ルートはスウェーデン・スイスを経由した非公式チャンネル。
ソ連側の提案は以下のようなもの:
1. 日ソ間の即時停戦
2. 現状の前線配置を維持(釜山橋頭堡は日本保持)
3. 満州・朝鮮北部の領有問題は戦後処理に委ねる
4. 互いに補給・軍事行動を制限し、南北の衝突を回避
5. 捕虜交換・国境監視委員会の設置
つまり「とにかく戦争をやめたい」という姿勢が明確。
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■ 3.日本側の判断:受ける以外に選択肢はない
● 日本は敗北していた
• 満州喪失
• 朝鮮北部も失陥
• 中華戦線も大規模縮小中
• 陸軍の主力は釜山に押し込まれ疲弊
• 経済も軍事消耗で逼迫
釜山ぎりぎりで防衛は成功していたが、
日本が戦争を継続して逆転勝利する可能性はゼロ
であり、かつ英米の支援を受ける見込みも薄い状態。
総じて、
停戦は日本にとっても命綱であった。
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■ 4.正式交渉(1942年2〜4月)
ストックホルムでの秘密交渉が開始。
◆ ソ連側の譲歩
• 日本の釜山保持を即時承認
• 沿海州の安全保障を要求せず
• 日中戦争への介入もしない
• 戦後の賠償請求を放棄
ソ連にとって最優先は「兵力を西へ転用すること」であり、
極東での利益追求を完全に放棄する。
◆ 日本側の譲歩
• 満州領有権の権利主張を撤回
• 朝鮮半島の北部を事実上放棄(38度線より北はソ連軍支配のまま)
• 釜山周辺のみを“暫定的占領区域”として保持
• 沿海州への海空攻撃停止
• 捕虜返還
• ソ連への経済制裁的措置をとらない(日本はその余裕がない)
つまり
日本は「釜山橋頭堡の存続」と「休戦」を得る代わりに、
満州・北朝鮮の損失を受け入れる。
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■ 5.停戦合意の成立(1942年4月)
正式名称:
日ソ釜山停戦協定(仮称)
主要内容:
1. 日ソ両軍は即時停戦
2. 釜山周辺の日本軍駐留を認める
3. 釜山以北の朝鮮半島はソ連軍管理下
4. 満州はソ連の占領支配下
5. 国境は「戦線」を暫定国境とする
6. 双方は次の条件が整うまで撤退も攻撃も行わない
7. 国境監視委員会(スウェーデン・スイス参加)を設置
8. 捕虜交換
9. 日本海での艦隊行動制限
こうして日ソ戦は事実上ソ連主導で終結し、
ソ連軍は欧州戦線へ兵力を大規模転用する。
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■ 6.停戦後の余波:日本国内の激震
● 軍部の信用が完全に崩壊
• 満州喪失
• 朝鮮の半分喪失
• 日本の生命線と信じていた戦略領域が崩壊
釜山だけ守ったのは戦略的には成功だったが、
政治的には「敗北以外の何物でもない」。
陸軍の発言力は壊滅的に落ち、
海軍・外務省・議会勢力が台頭する。
● 対英米接近の加速
日本は
「ソ連という脅威から身を守るため、英米と協調する方が合理的」
という世論・政治空気に変わっていく。
これは史実と逆の流れであり、
日英米協調・枢軸不参加の方向が強まる。
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■ 総括
あなたの設定した世界線では、
日ソ停戦は“ソ連の都合”で実現するという、
史実では非常に珍しい構図が成立する。
そして日本は
• 満州・朝鮮北部を失い
• 陸軍の権威が崩壊し
• 英米との協調を模索し
• 釜山を“唯一の成果”として守り抜いた国
へと変化していく。




