■ 満州全域崩壊(1939年9月〜1940年春) 〜関東軍の“虚構の強さ”が一気に破綻した半年〜
【1】ノモンハン包囲壊滅の直後:前線が“穴だらけ”になる(1939年9月)
ハルハ川での日本軍主力壊滅は、
想像以上に広域な戦略的影響を持った。
● 2〜3個師団相当が損失(戦死・捕虜・装備喪失)
● 補給・通信網も同時に破壊
● 兵站部隊が逃散し、前線への弾薬供給が停止
この結果、満州国境線には
**10〜20km単位で空白地域(無防備地帯)**ができ、
ソ連軍の機械化部隊がその隙間から容易に侵入できる状態となった。
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【2】関東軍の組織崩壊:命令系統が崩れる
関東軍の特徴は、そもそも
• 独断専行が常態化
• 参謀主導で現場を戦略無視で動かす
• 部隊の質にばらつきが多い
ことであり、危機時の統制能力は低かった。
ノモンハン敗北で生じたのは、まさに以下の状態:
● 司令部が実情把握不能
● 前線指揮官が現地判断で撤退を開始
● 増援部隊が前線に着く前に状況が変わる
● 情報混乱で違う命令が乱発される
これにより満州軍は
組織的撤退ではなく、部隊単位の潰走が発生する。
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【3】ソ連軍の侵攻パターン:機械化縦深突破(1939年10月)
スターリンはこの機会を逃さず、
ジューコフに**「満州北部の戦略的要地を掌握せよ」**と命じる。
ジューコフは以下の三方向作戦を採用:
① 北方:アムール川沿いからの装甲部隊の針路
② 西方:ハルハ河方面からの縦深突破
③ 南方:チャハル方面から山地を越える歩兵・騎兵部隊
史実でもソ連は高い機動能力を持っていたが、
この世界では日本側の抵抗が薄いため侵攻速度が上がる。
結果、満州北部は “前線を張れないまま陥落” となる。
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【4】満州国軍のほぼ全域崩壊
満州国軍はそもそも士気が低く、訓練不足。
さらに日本軍が敗北したことで心理的支柱を失う。
• 各地で大量脱走
• 匪賊・反満勢力の活動再燃
• ソ連軍への投降や協力者が増加
これにより、満州の支配体系そのものが崩れ、
日本軍が頼れる現地治安勢力が消滅する。
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【5】鉄道と都市の喪失:補給の完全崩壊
満州防衛に最も重要なのは「鉄道網」だが、
ソ連軍は鉄道・通信施設を優先的に占領し、破壊も行う。
● 満州里 → ハイラル → 通遼 が相次いで失陥
● 満鉄沿線でパルチザン活動が激増
● 日本軍は鉄道を使えず、徒歩・馬車での撤退に追い込まれる
秋から冬にかけての厳しい気候もあり、
兵士は凍傷・飢餓で倒れ、
戦闘しなくても部隊が崩壊する状況になる。
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【6】張家口・錦州方面の日本軍も後退開始(1939年末)
満州西南部の兵力も、関東軍壊滅の情報を聞いて士気が急落。
「もはや満州全域の保持は不可能」
「朝鮮半島での第二防衛線を準備すべし」
という意見が主流になり、
中国北部の日本軍(華北方面軍)も一部が北上援軍を拒否。
代わりに 遼東半島方面への撤退を選択する。
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【7】奉天(瀋陽)・長春の陥落(1940年初頭)
満州の心臓部である奉天・長春は、
本来、強固な要塞化が可能な地域だった。
しかし、
• 補給壊滅
• 兵士の疲弊
• 航空機全滅に近い状態(制空権ゼロ)
• 炮兵・戦車ほぼ喪失
• 逃げ込んだ民衆で市内混乱
などにより、長期防衛が不可能となる。
● 奉天:10日程度の戦闘で陥落
● 長春:補給途絶で数日で放棄
ここで満州国は実質的に滅亡する。
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【8】遼東半島の死守失敗 → 朝鮮半島への大撤退
関東軍司令部は最後の望みとして
「遼東半島(丹東〜旅順)で持久戦を行い、日本本土からの増援を待つ」
とするが、この判断は致命的。
• 海上からは日本海軍が補給できるが
• 陸路は完全に遮断
• ソ連軍の航空攻撃により輸送船が損耗
• 兵士の士気は崩壊しており、持久戦能力なし
結果、遼東防衛線はわずか数週間で崩壊し、
日本軍はほぼ全軍が朝鮮半島北部まで撤退する。
ここでようやく“満州全域喪失”が確定する。
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■ 総括:満州崩壊の根本要因
〇 日本軍の機械化・補給能力の致命的不足
〇 指揮統制の混乱(関東軍の独断専行)
〇 満州国軍の脆弱性
〇 ソ連軍の圧倒的な機動力・火力
〇 日本政治の統制不能(増援と撤退の判断遅れ)
〇 冬季作戦に完全に耐えられない兵站
これらが重なり、
満州は半年~9ヶ月で全面崩壊するという結果になる。




