■ この世界のノモンハン事件(1939)
【1】発端:境界紛争の再発と関東軍の独走(1939年5月)
史実同様、ハルハ川周辺での国境認識の不一致から、
蒙古人民共和国軍と満州国軍の小競り合いが発生する。
しかしこの世界では、
● 日本陸軍内部で「満州国防衛=陸軍の存在意義」とする強硬派がより強い
● 石原莞爾・東條英機系統が妥協よりも“示威行動”を重視
といった構造が強く働き、関東軍参謀は局地戦を拡大してでも
“モンゴル・ソ連軍を撤退させる”ことを優先した。
そのため、日本側は史実より早く、そして大規模に兵力を投入する。
• 張鼓峰事件の仇を返すべきという世論
• 陸軍中央の統制力低下
• 「ソ連は欧州で手一杯で極東に本格介入できない」という誤判断
これらが重なり、第一段階のエスカレーションが起こる。
---
【2】日本軍の規模拡大と“限定攻勢”の開始(6月〜7月)
関東軍は史実より2〜3倍規模の兵力をノモンハンに集結させる。
• 歩兵 4〜5個師団
• 戦車100両以上(97中戦車中心)
• 野砲・迫撃砲大量投入
• 海軍による沿海州への陽動空襲(小規模)
中央は「これ以上拡大するな」と命令するが、
関東軍は“勝手に解釈”して以下の方針をとる:
● 「ソ連軍をハルハ川の東岸から排除する」のが目的
● これは国境防衛行動であり、“戦争拡大ではない”
結果、実質的に局地攻勢作戦が始まる。
---
【3】ソ連軍の大反撃:ジューコフ到着(7月末〜8月)
史実同様だが、拡大した日本兵力に合わせて、
ソ連はさらに大規模な戦力を投入する。
• 戦車・装甲車 約600輌超
• 航空機 約500機
• 機械化步兵・砲兵部隊を大量展開
• ジューコフ指揮官の着任(史実より早め)
特にこの世界では:
● 日本が“局地攻勢”を始めたことで、ソ連はこれを「意図的な侵攻」と認識
● 欧州情勢(独ソ条約交渉中)により、極東の威信を守る必要性が増大
● スターリンは「日本に一度はっきりと懲罰を与えるべき」と判断
これにより、史実より明確に“殲滅戦”の色彩を帯びる。
---
【4】ハルハ川包囲戦:日本側の壊滅(8月下旬)
ソ連軍は大規模な包囲機動を行い、
日本側主力(2〜3個師団)がハルハ川東岸で孤立。
日本軍の弱点が一気に露呈する:
• 戦車がソ連T-26・BT-5/7に太刀打ちできない
• 砲兵が不足し、対戦車戦闘が成立しない
• 航空優勢を完全にソ連が握る
• 補給線が細く、弾薬が枯渇していく
包囲突破も失敗し、一部は潰走、一部は降伏という最悪の結果となる。
---
【5】関東軍の判断ミスと“戦線崩壊”(9月)
敗北の影響から満州全域で士気が急落し、
各地でソ連軍の前進に耐えられない状態が生じる。
中央の陸軍参謀本部は、
「これはまだ国境紛争の延長であり、停戦を模索すべきだ」
と考えるが、関東軍はこれに真っ向から反発する。
● 「国境紛争」ではなく「満州国存亡の危機」
● 満州放棄は陸軍の死
● よって即時の総力戦体制へ移行すべし
ここで日本は決定的なミスをする。
---
【6】陸軍強硬派が“対ソ全面戦争”を宣言(9月中旬)
内閣と陸軍中央の反対を押し切り、
関東軍は満洲国の「自主防衛戦」を名目に
自動的に日本本土の義務的参戦状態を発生させる。
政治的クーデターには至らないが、実質的に
陸軍が政府を無視して戦争拡大に突き進む。
ここから戦局が完全に制御不能になり、
■ ソ連の反撃速度が上昇
■ 日本は兵力を急増させるが質・補給で劣勢
■ 満州全域が“戦略破綻”状態に入る
この時点で日本は“国としての敗北”が確定的となる。
---
【7】この結果、満州防衛線が総崩れ → 朝鮮半島へ後退
この世界線では、ノモンハンは
「局地衝突」ではなく 日ソ戦争の開戦戦 となり、
敗北そのものがのちの全ての悲劇の起点となる。




