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失われた30年の闇 ― 沈黙の壁を破る者 ―

この物語は、日本社会の停滞と年金資産の行方を題材にしたフィクションです。

「失われた30年」と呼ばれる時代に、いったい何が国民の豊かさを奪ったのか。

そして、その背後に潜む“設計図”とは何なのか。

主人公は一人の記者。

彼は監視に追われながらも、社会に潜む沈黙の壁を破ろうとします。

フィクションではありますが、現実の社会問題をモチーフにしています。

読んでくださる方に「もし自分が同じ状況に置かれたらどうするか」と感じてもらえれば幸いです。

プロローグ

 「クジラ」と呼ばれる存在がいる。

 株式市場において、一度身じろぎをすれば相場が大きく揺れる――そんな圧倒的な資産規模を持つ投資主体につけられるあだ名だ。その正体のひとつが、GPIF――Government Pension Investment Fund(年金積立金管理運用独立行政法人)。日本国民の老後資金を預かり、世界最大規模の約二百五十兆円を運用する組織である。

 だが、その実態を知る者は少ない。

 職員はわずか二百人足らず、運用の大部分は外部委託。ポートフォリオ――資産配分――は国内債券や株式を切り崩し、いまや外国株式に大きく傾いている。その比率は「国民の年金が海外の株式市場に賭けられている」と言っても過言ではない水準だった。

 主人公・高梨悠一は、都内の新聞社に勤める経済記者。長く低迷を続ける「失われた三十年」に関する記事を追っていたある日、ふとしたきっかけでGPIFの内部資料を手にする。

 そこに記されていたのは、不可解な投資判断と、ゴールドマン・サックスをはじめとするウォール街(Wall Street)出身者の名前。外資金融の巨人たちと、日本の年金資産を結びつける線が浮かび上がった瞬間だった。

 「年金は国民のためにあるのか? それとも誰かのために運用されているのか?」

 問いは記者としての使命感を刺激すると同時に、命を削るほど危険な闇へと足を踏み入れる予兆でもあった。

 老後の安心を支えるはずの基金。その裏に潜むものを暴こうとする時、権力と資本が絡み合った巨大な網が静かに牙を剥く。


第1章 沈黙の壁

第1節 停滞する日本経済

 朝の編集会議を終えた高梨悠一は、机に広げた資料の束に目を落とした。そこには内閣府が発表した経済統計と、厚生労働省の社会保障費に関する白書が並んでいる。数字の羅列を追うたびに、ため息がこぼれた。

 「失われた三十年」――。

 経済部の記者として長年耳にしてきた言葉だ。バブル崩壊以降、日本の平均賃金は上がらず、むしろ減少傾向にある。先進国の中で取り残された実感は、グラフの傾きが無言で物語っていた。

 高梨が特に注目したのは、国民負担率。国民が稼いだ所得のうち、税金や社会保険料として徴収される割合のことだ。半世紀前は25%前後に過ぎなかったが、今では50%近くに達している。つまり、働いた分の半分が国に吸い上げられ、残りで生活をやり繰りしているのだ。

 「これじゃ、豊かさなんて実感できるはずがないな……」

 独り言のようにつぶやき、資料を閉じる。記事の切り口を探るため、彼は街頭に出て市民の声を集めることにした。

 休日のショッピングモール。子連れの母親や学生、退職後の高齢者に声をかけ、暮らしぶりや負担感について尋ねる。誰もが一様に「生活は楽じゃない」と答えた。

 そんな中、30代半ばの女性、小島美咲が足を止めてくれた。彼女は小さな子どもの手を引きながら、ためらうことなく言葉を口にした。

 「正直に言えば……年金なんて信じてません。私たちが払った分、本当に戻ってくるんですか? 将来が見えないから、子どもをもう一人産むかどうかすら迷ってます」

 高梨はメモを取りながら、彼女の表情を見た。強さと不安が入り混じった眼差し。記者としての心に引っかかるものがあった。数字の裏側に、こうした声がある。記事にすべきはグラフではなく、目の前の生活なのかもしれない。

 しかし同時に、彼女の「年金は信じられない」という言葉は、別の疑念を呼び覚ました。

 なぜ、国民の安心のはずの制度が、ここまで信用を失っているのか――。


第2節 クジラとの遭遇

 夕暮れのオフィス。経済統計の整理に追われていた高梨は、ふと厚労省のホームページに公開されている「年金積立金運用状況報告」に目を止めた。何気なく開いたその資料に、奇妙な既視感を覚える。

 GPIF――Government Pension Investment Fund(年金積立金管理運用独立行政法人)。

 世界最大の年金ファンドであり、総額は二百五十兆円を超える。市場では「クジラ」と呼ばれていた。なぜなら、ひとたび資金を動かせば、相場そのものが揺れるからだ。

 だが、高梨が注目したのはその運用比率だった。

 国内株式や国債よりも、外国株式への投資比率が突出して高い。まるで、日本国民の老後資金を国外市場に委ねているかのように見える。

 「……こんなに外国株に寄せる必要があるのか?」

 疑問を抱いた彼は、知り合いの証券会社のアナリストに連絡を取った。

 喫茶店で顔を合わせた若手アナリストは、コーヒーを前にして言葉を選ぶように答えた。

 「公表資料だから誰でも見られますけど、裏話もあって……実際、この運用方針を主導したCIO(最高投資責任者)はゴールドマン・サックス出身なんです。外資系のやり方をそのまま持ち込んだ、という噂ですよ」

 高梨は思わず手帳に走り書きした。

 ゴールドマン・サックス――米国ウォール街の象徴ともいえる投資銀行。その出身者が、日本の年金資産の運用を事実上コントロールしている?

 背筋に冷たいものが走った。

 年金基金は国民全員から集めた大切な資金だ。それが外資金融のロジックに沿って動かされているとしたら……国民は知らぬ間に、見えない「投資ゲーム」の駒にされているのではないか。

 窓の外に広がる夜景を見ながら、高梨はペンを止めた。

 「市場のクジラ」と呼ばれるGPIF。その巨体は、果たして誰の指令で泳いでいるのか。

 記者としての直感が、「これはただの経済記事では済まない」と告げていた。


第3節 違和感の芽

 アナリストとの会話を終えた高梨は、帰社後も資料にかじりついた。数字を追えば追うほど、違和感が募る。国内の投資先が縮小され、外国株式の比率が膨れ上がる。その流れは一貫して「外の論理」に従っているように見えた。

 社内のデータベースを検索し、過去の記事や国会答弁を調べる。すると、「ゴールドマン・サックス出身のCIOが主導した改革」という断片的な記述が見つかった。だが、その背景や経緯を詳しく追った記事はない。なぜ誰も掘り下げないのか――。

 「おかしいな……これだけの規模のファンドだ。メディアが沈黙しているのは不自然だ」

 疑念が深まる中、証券関係者の一人がオフレコで漏らした言葉が頭から離れなかった。

 ――『年金資産は、もう国民のためじゃない。』

 高梨はメモ帳に大きくその言葉を書き込み、しばらく見つめた。もしそれが事実なら、国民は「知らない間に搾取される構造」の中に閉じ込められていることになる。

 翌日、彼は編集部の同僚に話を持ちかけた。

 「外国株にここまで寄せるのは不自然じゃないか?」

 だが返ってきたのは、冷ややかな反応だった。

 「やめとけよ、高梨。GPIFはタブーだ。触れても誰も喜ばないし、上から止められるだけだ」

 その言葉は、逆に彼を突き動かした。記者として封印されるテーマこそ、真実が潜んでいる可能性が高い。

 夜、自宅で資料を整理していると、メールの着信音が鳴った。差出人不明。件名にはただ一言、こう書かれていた。

 「真実を知りたければ会ってほしい」

 本文には簡潔な文が続く。

 ――「GPIFの運用は歪められている。証拠を渡したい。差出人はS。」

 高梨はしばし画面を見つめた。半信半疑でありながらも、胸の奥に鋭いざわめきが走る。

 「S」と名乗る人物が本当に内部関係者なのか、それとも罠なのか。

 だが、この一通のメールが、彼を逃れられない闇の渦へと引きずり込んでいく最初の「芽」となるのだった。


第4節 内部告発の兆し

 翌日の午後。高梨は社内の片隅でメールを何度も読み返していた。

 ――「GPIFの運用は歪められている。証拠を渡したい。差出人はS。」

 匿名性の高いフリーメール。文面からは感情の起伏が感じられず、無機質な冷たさすら漂っていた。しかし、だからこそ「本気度」が伝わってくるように思えた。

 指定されたのは、都心から少し離れた古い公園。日が暮れると人影がまばらになり、取材対象者が情報を渡すにはうってつけの場所だった。

 日没後、高梨は念のため周囲を警戒しながら現地に向かった。街灯に照らされた遊具が不気味に光り、秋風に落ち葉が舞う。しばらく待っていると、フードを深くかぶった男が近づいてきた。

 「……あなたが高梨さんですね」

 かすれた声。年齢は三十代後半だろうか。名乗ったのは「篠原」。GPIFの職員だという。

 彼は周囲を確認しながら、低い声で切り出した。

 「GPIFは、表に出ている数字だけを見ても真実は分かりません。内部では、特定の外資出身者が方針をねじ曲げているんです」

 高梨は息をのんだ。

 「それを証明できるものは?」

 篠原はポケットから小さなUSBメモリを取り出した。

 「ここに一部をコピーしました。公式には絶対に出せない資料です。……ただ、渡した以上、私も危険になる」

 彼の目は怯えと覚悟の間で揺れていた。

 「お願いです。記事にしてください。年金は国民の老後を守るもののはずなのに、このままでは外に吸い取られるだけです」

 高梨はUSBを受け取る手に力が入るのを感じた。

 国民全員の資産を守るべき組織が、歪んだ構造に飲み込まれている――。記者としての直感が「大事件だ」と告げていた。

 だが同時に、篠原の震える声が胸に重く残る。

 「もし私に何かあったら……そのときは、真実を広めてください」

 暗闇の中で交わされた言葉は、確かな鎖となって高梨を縛った。

 もう後戻りはできない。


第2章 告発の代償

第1節 USBの中身

 深夜、記者クラブの残業灯を背に帰宅した高梨は、机に置いた小さなUSBを見つめていた。篠原から託されたその銀色の小片は、ただの記録媒体にすぎない。だが中身次第では、国を揺るがす火薬庫になり得る。

 ノートパソコンに差し込み、ファイルを開く。暗号化されてはいないが、素人では手に余る膨大な資料が現れた。投資先別の詳細リスト、会議議事録の断片、内部メールのコピー。公式に公表される報告書とは明らかに温度の違う、生々しい記録の数々だった。

 まず目に飛び込んできたのは、外国株式への投資比率が急激に増えていくグラフ。資料の横には「上層部指示により調整」と簡潔な注釈があり、通常のリスク管理の枠を超えた強制力を示していた。

 さらにメールの束を開く。そこには、外資系金融機関の担当者とのやり取りが残されていた。

 ――「次回の調整では、米国株の比率を優先的に」

 ――「他案件よりこちらを先行処理せよ」

 宛名には、外資系投資銀行の頭文字と、現GPIF幹部の名前が並んでいる。

 「……これは、ただの方針じゃない。命令だ」

 高梨の背中に冷たい汗が伝う。投資判断は、あくまで国民の利益を最優先にすべきはずだ。だが実際には、特定の外資金融の利益に沿って動かされている――そんな疑惑が露わになっていた。

 さらに、内部会議の議事録には不可解な一文があった。

 「国会答弁を考慮し、表向きは『リスク分散』と説明せよ」

 言葉の裏側には、既に「真実を隠す前提」で動いている幹部たちの姿が見え隠れする。

 深夜の静けさの中、ページをめくるたびに高梨の心拍は早まった。

 これは、社会面に載る「負担増」の記事とは次元が違う。国家の根幹にかかわるスキャンダルかもしれない。

 画面に浮かぶ資料の山を前に、高梨は深く息を吸い込んだ。

 「――篠原、あんたは命懸けでこれを託したんだな」

 ペンを握る手が震えていた。だが、その震えは恐怖ではなく、記者としての使命感が血を熱くしている証でもあった。


第2節 篠原の告白

 数日後の夜、高梨は再び篠原と落ち合った。前回と同じ公園。だが、篠原の表情は一段と硬くなっていた。目の下には濃い隈が浮かび、疲労と緊張が彼を蝕んでいることが一目でわかった。

 「……あのUSB、中身を見ましたか」

 「見た。これは、ただの投資判断じゃない。外からの命令に近いものだ」

 篠原は深くうなずき、しばらく口をつぐんだ。風に落ち葉が舞い、二人の沈黙を包む。やがて彼は声を絞り出した。

 「GPIFは建前上、独立した機関です。理事もCIO(Chief Investment Officer、最高投資責任者)も、法律上は国民の利益を第一に運用すべき立場にある。……でも現実は違う。外資出身の幹部が方針を決め、現場には調整という名の圧力がかかるんです」

 その言葉には、苦い悔しさがにじんでいた。

 「私はもともと、国民の老後を守るためにこの職に就いたつもりでした。けれど、いつからか会議はどの外資を優先するかという話ばかりになった。数字をどう見せれば国会をだませるか、そんな議論ばかりです」

 高梨は息をのんだ。

 「つまり、年金資産が国外に吸い上げられている……そういうことか」

 篠原は力なく笑った。

 「吸い上げられている、というより……差し出している、に近いかもしれません。日本が持つ巨額の資産を、あたかも国際貢献のように装って外に流している。けれど、その実態は特定の金融機関の利益に奉仕しているだけなんです」

 言葉を続ける篠原の声は震えていた。

 「私がこうして話していること自体、危険です。すでに監視されている気配がある。尾行を感じる日も増えました」

 高梨は篠原の目を真っ直ぐに見た。

 「それでも、なぜ俺に託した?」

 一瞬、篠原の瞳に光が宿った。

 「……記者だからです。あなたしかいないと思った。私には暴く力はない。でも、あなたなら国民に伝えられる」

 その言葉の重さが高梨の胸に突き刺さる。記者であることの責任、そして誰かの希望を背負うことの重み。

 遠くで街灯がちらつき、風が冷たくなった。

 篠原の影は揺れていたが、その決意だけは揺らぎなかった。


第3節 政治の影

 篠原の証言を得た後も、高梨の胸には重苦しい疑念が残っていた。

 ――外資が仕掛け、幹部が従う。だが、それを黙認しているのは誰だ?

 その問いに答えを出すには、政界の動きを探るしかなかった。

 高梨は過去の新聞記事や議事録を洗い直した。表向きは「年金制度改革」「持続可能な社会保障」と題された国会審議。その裏で、特定の与党議員がGPIF幹部と頻繁に接触している記録が残っていた。

 さらに、外資金融の幹部が来日した際、非公開の会合が高級ホテルで開かれていたことも判明した。

 「……やっぱり繋がっている」

 確証を得るため、高梨は夜のホテルラウンジに足を運んだ。ネクタイを緩めた与党の大物議員が、外国人のスーツ姿と肩を並べて酒を酌み交わしている姿を目撃する。

 笑顔を浮かべながら交わされる会話の断片が耳に届いた。

 「米国債の件は予定通り進めてくれ」

 「GPIFが調整すれば、数字は作れる。心配はいらん」

 高梨の背筋に戦慄が走った。年金資産は国民の老後を支えるためのものではなく、外交のカードとして、そして政権維持のための資金源として使われている――。

 彼はその場で写真を撮った。議員と外資幹部が並んでいるだけの構図だが、記事に添えれば疑惑を喚起するに十分だ。だが問題は、これを本当に世に出せるかどうか。

 翌朝、編集部でネタを持ち込むと、編集長の表情は険しかった。

 「高梨、この件はやめろ。写真も証拠も弱い。……それに、上からストップがかかっている」

 「上って、誰ですか」

 「言わせるな。察しろ」

 机に資料を叩きつけたい衝動を抑え、高梨は黙り込んだ。

 メディアが権力の番犬でなく権力の下僕に成り下がる瞬間を、目の前で突きつけられた気がした。

 取材ノートを閉じながら、彼は決意を固めた。

 「……だったら、俺が暴くしかない」

 窓の外には、都心のネオンが揺れていた。光に包まれながらも、街は確実に何かに縛られている。その影を照らす役目が自分に課されているのだと、高梨は噛みしめていた。


第4節 暗雲

 USBの内容とホテルでの密会を確認した高梨は、決定的な記事に仕立てようと取材ノートを整理していた。だが、その矢先から奇妙な違和感が日常に忍び込んでいた。

 自宅マンションの郵便受けが何度も荒らされたように乱れている。机の上に置いたはずの資料が、位置をわずかに変えている。最初は気のせいだと思ったが、ある晩パソコンを開くと、ファイルの更新日時が自分の記憶と合っていなかった。

 「……ハッキングか」

 背筋が冷えた。外部に漏れてはいけない証拠が、既に誰かの目に触れた可能性がある。

 その夜、篠原から短いメッセージが届いた。

 ――「尾行されている。しばらく連絡できない」

 文字数は少ないのに、そこに込められた恐怖は痛いほど伝わった。彼は既に監視下に置かれている。命の危険すら感じているのだろう。

 翌日、出社した高梨に同僚が耳打ちした。

 「おい、気をつけろ。お前の動きを探ってる連中がいる。会社にも圧力が来てる。……正直、この件はもう降りろ」

 だが高梨は首を横に振った。

 「降りたら、国民の年金は永遠に闇に葬られる。俺が書かなきゃ誰も書かない」

 その決意は強固だったが、同時に孤独だった。編集部は守ってくれない。篠原は影に追われ、連絡も絶えがち。背後から忍び寄る暗雲が、次の嵐を予告している。

 窓の外に広がる曇天を見上げ、高梨は胸の奥で呟いた。

 「ここから先は、命を懸ける領域だ……」


第3章 背後の構造

第1節 不自然なポートフォリオ

 篠原から受け取った資料を精査していくうちに、高梨の目はある一点に釘付けになった。GPIFの投資先リスト。その中に、聞き慣れた米国企業の名前が並んでいた。

 情報通信、ヘルスケア、金融――どれも世界的な大企業ばかりだが、特に異様に目立ったのは「防衛産業関連」の項目だった。

 ロッキード・マーティン、レイセオン、ノースロップ・グラマン――。いずれもアメリカを代表する軍需企業だ。

 「……なぜ年金資産が、こんな比率で軍需産業に?」

 本来、年金基金は安定運用が基本だ。分散投資を原則とし、極端な偏りは避ける。それなのに、ここ数年で防衛産業株への投資比率が急上昇していた。

 さらに議事録の断片には、「国際安全保障上の要請を考慮せよ」といった文言が記されていた。

 安全保障――?

 経済的合理性ではなく、政治的意図が投資判断に影響していることを示すものだった。

 高梨は専門家に話を聞こうと、信頼できる経済学者を訪ねた。

 「GPIFの投資は、純粋にリターンを追うべきものじゃないんですか?」

 教授は眉をひそめて答えた。

 「表向きはそうです。しかし、世界最大の機関投資家であるGPIFは、国際金融にとってシステムの要でもある。もし外資の圧力や政府の思惑が絡めば、年金資産は簡単に外交資源に変えられてしまうでしょう」

 その言葉は重く、現実味を帯びて響いた。

 年金という国民の老後資金が、知らぬ間に他国の軍事産業を潤す道具になっている――。

 帰り道、高梨はノートを開き、ページの片隅に大きく書き込んだ。

 「年金は国民のためか、国家のためか、それとも外資のためか」

 答えはまだ出ない。だが、その問いが彼をさらなる危険へと導くことだけは、直感で分かっていた。


第2節 篠原の失踪

 篠原からの連絡が、突然途絶えた。

 最後のメッセージは短いものだった。――「尾行されている。しばらく連絡できない」。

 その後、メールも電話も返ってこない。既読の印すら消えたまま、数日が過ぎていた。

 不安を抱えた高梨は、GPIFの本部を訪ねてみた。受付で篠原の名前を告げると、女性職員が一瞬言葉に詰まり、事務的な笑みを浮かべて答えた。

 「現在、篠原は休職中です」

 「休職? いつからですか?」

 「詳しいことは……個人情報なので」

 声の奥に漂うわずかな緊張が、逆にすべてを物語っていた。

 帰り道、高梨の胸中には鉛のような重さが広がった。

 休職という建前の裏で、篠原は何者かに消されたのではないか――。その考えが頭から離れなかった。

 その夜、高梨のポストに一通の茶封筒が投げ込まれていた。宛名も差出人もない。中には、篠原の字で書かれた小さなメモが入っていた。

 ――「次はホテルの会議室を調べろ」

 震える指で紙を握りしめる。篠原は確かに生きていた。だが、なぜこんな形でしかメッセージを残せないのか。追い詰められ、自由に動けない証拠だ。

 高梨は窓の外を見た。夜の街に、車のヘッドライトが流れていく。その光の一つ一つが監視の目に見え、背筋に冷たいものが走った。

 篠原が消えた今、彼の遺した言葉だけが羅針盤だ。

 「ホテルの会議室」――そこに、GPIFと外資の癒着を裏付ける秘密が隠されているのかもしれない。

 だが同時に、それは自らも同じ運命に引きずり込まれる危険な扉であることを、高梨は理解していた。


第3節 ホテルの密会

 篠原が残したメモ――「ホテルの会議室を調べろ」。

 高梨はその指示を頼りに、都心の一流ホテルへと足を運んだ。平日の夜、ロビーは華やかな照明と高級ブランドの光に包まれ、一般客には何の変哲もない賑わいを見せていた。だが、その奥にある会議室フロアは、異様な静けさに支配されていた。

 事前に仕入れた情報によれば、今夜は与党の実力者と外資金融幹部が非公開の会合を開くという。高梨は名札を偽装し、スタッフに紛れて会議室の近くまで潜り込んだ。

 扉の隙間から漏れる声。低く抑えた笑い。

 「――日本の資金は、国際秩序のために使われるべきだ」

 「もちろん。その代わり、君たちの選挙資金は保証しよう。GPIFを通じて流れるカネは、互いの利益になる」

 高梨の手が汗ばむ。

 年金資産が外交カードに使われ、政界と外資の利害調整に利用されている。国民の老後資金が、密室で取引されていた。

 さらに耳を澄ます。

 「軍需株の比率は予定どおり上げてほしい。米国防総省も注目している」

 「安心してほしい。『リスク分散』と説明すれば、国会も国民も納得する」

 胸が高鳴り、ペンを握る指が震えた。

 ――これは決定的な証拠だ。

 その瞬間、背後で床板が軋んだ。振り向くと、ホテルの警備員らしき男が立っていた。だが、その目は明らかに「ただの警備」ではない鋭さを帯びている。

 「お客様、こちらで何を?」

 高梨は咄嗟に取材用のカメラを閉じ、記録をポケットに滑り込ませた。逃げなければ証拠ごと押収される。

 彼は小さく頭を下げ、背を向けて歩き出した。だが、足音が後を追ってくる。

 ロビーへ戻るエレベーターの中、背中に突き刺さる視線を感じながら、高梨は心の中で呟いた。

 「――篠原、これがあんたの言った真実か」

 ホテルを出た瞬間、冷たい夜風が頬を打った。だが、その風は自由ではなく、むしろ包囲網の始まりを告げているように思えた。


第4節 包囲網

 ホテルでの密会を記録した音声とメモを握りしめ、高梨は編集部に戻った。これさえあれば記事にできる――そう思ったのも束の間、デスクに座る編集長の表情は暗かった。

 「高梨、この件はもういい。上からこれ以上書くなと通達が来ている」

 「上って……誰ですか?」

 「政府だ。官邸筋からだ。記事にすれば社も潰れるぞ」

 冷え切った言葉に、高梨は奥歯を噛みしめた。ペンを持つ者が、権力の監視ではなく権力の犬に成り下がる――その現実を目の前で突きつけられた気がした。

 自宅に戻ると、さらに異様な光景が待っていた。

 机の引き出しが僅かに開いており、USBをしまったはずのケースが微妙にずれている。ファイルを確認すると、更新日時が変わっていた。

 「……誰かが中を覗いた」

 恐怖が背筋を走った。盗みに入った者は証拠を奪わず、あえて触った痕跡を残していったのだ。それは無言の脅迫に等しかった。

 翌日、外出先で背後に視線を感じた。振り返ると、黒いスーツ姿の男が新聞を広げながら彼を見ている。別の場所でも、同じ顔を見かけた。

 尾行だ――。

 篠原からの連絡は途絶えたまま。編集部も敵に回り、外資と政界の網がじわじわと狭まってくる。

 夜、自宅のベランダで一服しながら高梨は、ふと街の灯りを見下ろした。誰もが平然と暮らしているように見える。だが、その足元で年金資産は密かに利用され、真実を暴こうとする者には闇の包囲網が待っている。

 「……もう後には退けない」

 煙草の火が闇に揺れた。高梨は追い詰められながらも、記者としての使命感に自らを縛りつけた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第1回では「プロローグ~第3章」までを収録しました。

高梨という一人の記者が、まだ孤独の中で真実に触れ始めた段階です。

これから彼は監視と追跡にさらされ、逃亡を余儀なくされます。

物語はさらに緊張を増し、「真実を告げることの代償」が明らかになっていきます。

続く第2回投稿では、ついに「命を懸けた逃亡劇」が描かれます。

ぜひ次回もお付き合いください。

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