欲しがりの妹に仕立て上げられたので、もう全部捨てたい(※ただし筋肉は除く)
『いいなぁ、お姉様! ミュリエラもそれ、欲しいです!』
たぶん一番最初のあの言葉がいけなかったのだなと、今ならわかる。
ミュリエラは公爵家の次女として生を受けたが、三歳のときに家族で訪れた領地で迷子になり、それから十歳になるまでの七年間、自分の素性を知らぬまま隣国の平民として自由気ままに暮らしていた。
迷子当時、森の中をひとりとっとこ歩いていたミュリエラを拾ってくれたのは、国境付近で仕事をしていた傭兵団だ。
見るからに迷子の子供が、泣くどころか枝を振り回しながらウリ坊を追いかけ回していたことに傭兵たちが大ウケし、幼いのにとんでもない子供がいたものだと孤児院に預けられることもなく、そのまま傭兵たちの妹のような娘のような存在としてかわいがられながらのびのびと育った。
傭兵の仕事は多岐に渡る。害獣駆除から荷運び、貴族や商人の用心棒などなど。主に力仕事を請け負っていたごつい男たちに代わる代わる肩車をされながらにこにこしていたミュリエラは、隣国で“傭兵団のちび姫”として有名になったことでその噂が祖国まで伝わり、もしかしてと思った両親が慌てて迎えに来たのだった。
幼い娘がなぜ隣国へ、と疑問も残ったらしいが、最終的には隣国へと渡る行商人の馬車に間違って乗ってしまい国境を越えたのだろうという線が濃厚ではないかと推測された。
ミュリエラとしても、自分ならやりそうだなぁ、と思って納得してしまうほど、お転婆娘だった自覚がある。傭兵団できゃっきゃっと無邪気に過ごしていた自分らしいとさえ思う。
めずらしいピンクブロンドのふわふわ髪が決め手となり、泣く泣く親元へと帰ったが、今でも傭兵団のみんなとの交流は続いている。彼らは仕事で近くに寄った際には、必ずミュリエラにお土産として狩ったばかりの鹿や猪なんかを置いていってくれる、相変わらず兄のような父のような存在だ。
傭兵団にいた数年間、ミュリエラは特に悲しい思いもせず幸せに暮らしていたのだが、両親からすれば過酷な環境にいた憐れな娘でしかなく、これまで離れていた時間を埋めるように、毎日驚くほどのプレゼントをしてくれるようになった。
数えきれないほどの服に、上等な宝石があしらわれたアクセサリー、勉強の遅れを取り戻すための教本から、子供の頃にもらえるはずだったおもちゃの数々。
そしてなにより、食べきれないほどのご馳走!
正直食べ物以外は反応に困りつつも、すべてミュリエラを思ってのことであると思えばこそ、両親からの好意を無下にはできなかった。
だけど気づくと、ミュリエラの部屋にはミュリエラへのプレゼントだけでなく、姉の私物や姉に贈られたプレゼントまでもが少しずつ増えていて……。
なにも知らず、全部両親からのプレゼントだと思い込んでいたミュリエラは、無事に学院へと入学し、人から指摘されてはじめて、自分の持ち物が姉から取り上げられた物だと知ったのだった。
姉に誕生日プレゼントとして贈ったリボンをミュリエラがしてきたのだから、それはもう、怒るのも理解できた。慌てて返したものの、それ以来、すっかり“欲しがりの妹”として白い目で見られるようになっている。
そして、現在――。
ミュリエラは学院のカフェで、衆目に晒されながら静かな弾劾を受けていた。
「ミュリエラ嬢。その髪飾りは私が婚約者であるきみの姉、テレサへと贈ったものなのだが、どうしてそれをきみが身につけているのかな?」
金髪碧眼、いかにも王子様然とした第一王子が、眉を顰めながらミュリエラを問い正す。口調こそ優しかったが、その言葉や眼差しはとことん辛辣だ。
彼の隣に座っている姉はというと、悲しげに目を伏せて黙っているだけ。そんな表情をされたら、まるでミュリエラが強引に姉から奪ったみたいではないか。真偽はともあれ、ますます非難の視線がミュリエラへと突き刺さる。
せめて人目のない生徒会室とかに呼び出してくれればと思わなくもないが、新作ケーキに釣られてうっかりカフェに足を踏み入ってしまったミュリエラの間が悪かったのだろう。
(またこのパターンか……)
これまで似たようなことが何度もあったが、みな家格の下の令嬢からの苦言であり、公爵家に強く出られなかったという点と、ミュリエラがすぐに返したことでどうにかその場は収まっていたが……。
さすがに今回ばかりは、そうもいかないだろう。
話をまとめるに、両親はとうとう、王族からのプレゼントの横流しをしてしまったらしいのだ。
両親の愛情が常にミュリエラに注がれているのはわかっている。離れていた次女との関係を取り戻そうと、彼らなりに必死なのだ。
最初の頃は傭兵団に帰りたくてよく泣いていたので、また娘がいなくなるのではという不安もあったのだろう。
その結果、姉の存在を無視するようになってしまったのは、幼かったミュリエラのせいではないと思いたい。
ミュリエラを繋ぎ止めるための努力を惜しまない両親は、ミュリエラのために最高の婚約者までもを用意して見せた。
ディオン・ルーザー。
伯爵家の三男であり、今、王子や姉とともにテーブルを囲んでいる、生徒会メンバーのうちのひとりである。
三男ではあるが王子の近衛騎士になることがすでに内定している将来有望株だ。
ミュリエラは傭兵たちに育てられたせいか、筋肉については一家言ある。
近衛騎士になるにふさわしく、涼しげに整った顔立ちや、凛としたその立ち姿に目が引かれがちのディオンだが、彼の素晴らしさはその制服の下にこそある。百九十センチ近くあるその高長身に見合った、均整の取れた完璧な体躯。着痩せするので一見するとわかりにくくはあるが、彼はミュリエラも認める、実践に特化した一切無駄のない国宝級の肉体美の持ち主なのだ。
なぜ知っているかと言えば、初対面で抱きついて全身を触りまくるという愚を犯したからである。
その場は無邪気さを装ってなんとか誤魔化したが、子供でなければ痴漢の前科一犯だ。反省はない。彼に会うたび余罪を重ねている。
ぽかんとしてされるがままだったディオンに、ミュリエラは筋肉鑑定人のごとく真摯な態度で各種筋肉と向き合い、欲望のままに愛で、若いのでまだまだ伸び代があることを考慮し、匂いまでもをすっかりと堪能してから、両親へと「合格」と、深々とうなずいてみせたのだった。
ミュリエラ、十三歳になったばかりのうら若き春のことである。
もっふもふのぬいぐるみよりも、ムッキムキの筋肉に抱かれて眠ると安心できるという特殊体質のため、素敵な筋肉を持つ婚約者との結婚を心待ちにして飛び級すらも考えていたミュリエラだが、現実はそううまくはいかず。
第一印象こそ最悪過ぎたものの、これまでは警戒されながらもそれなりに関係を築けていたはずのディオンから、最近はどうにも避けられ続けている気はしていたのだが……。
それを確信させるかのように、今、ディオンがミュリエラを見る目はあまりにも厳しい。
それは婚約者を見る目ではなく、言うならば容疑者を公平に裁こうとする判事のような目だった。
いつもの、思ってもいない反省を口にする痴漢の加害者を胡散臭げに見やる被害者の眼差しよりかは、いくらかましではあるのだが。
婚約者選びの段階で、最初こそ熱心に第一王子を勧めてきた両親だが、ミュリエラはそれだけは頑として受け入れなかった。両親に反抗したのは、たぶんその一度きりだけだ。細身の王子はミュリエラのタイプではなく、なによりその時点で姉といい仲だった。このときすでに両親の横流し癖の片鱗が窺えるのだが、王子との結婚だけは絶対回避しなければと焦っていて、そこまで細かい部分に気が回らなかったのだ。
ミュリエラが結婚相手に求めるものは、とにかく美しい筋肉。それ一択だった。
しかしミュリエラは、筋肉があればあるほどいいという、筋肉フェチではない。
筋肉がデカければいいという人とは相容れないのだ。
いざ戦さ場で、筋肉が重くて動けないようでは本末転倒。獣との戦闘にも間違いなく負ける。
むやみやたらに大きく育てただけで使えない筋肉など、ただの飾りでしかない。
造形が美しく、それでいてしなやか、さらには流れる汗が筋肉と筋肉の溝を伝う様すら美しい人がいいというミュリエラの願いを叶えるために、両親はあの手この手を駆使して情報収集し、顔よし、家柄よし、筋肉よし、の、三拍子揃った奇跡の存在を探し当てた。
ゆえにこの婚約に政略的なものはひとつも絡んでおらず、絡んでいるのは筋肉のみ。ディオンは望めばいくらでも良縁が結べたはずなのに、彼の両親は公爵家からの圧に耐えきれなかったのか、大切な末息子をミュリエラへと人身御供に差し出した。
そんなわけでディオンからしてみれば無理やり推し進められた婚約であり、今や姉の私物を欲しがっては奪うとの悪評がついたミュリエラ。姉は王家に嫁ぐので、ミュリエラの婿となれば爵位が手に入るとあっても、高潔な彼としては受け入れ難いものがあるのだろう。
ほかの生徒会メンバーたちのような、義憤に駆られた鋭い視線は向けてはこないが、ミュリエラのことを快く思っていないことはその顔を見れば明白だった。
とはいえ、血肉に飢えた狂犬の群れのような、血溜まりの中でガハハと笑う傭兵たちに慣れているので、貧弱な貴族令息たちに多少睨まれたところで、「まあ! 血統書付きの仔犬たちが威嚇してるわ!」くらいにしか思わないのがミュリエラだ。凶暴な熊や飢えた狼などと対峙してきたミュリエラからすれば、群れなければ生きていけないか弱き生き物に睨まれたところで、なにを怯えればいいのかわからない。
これまでは、姉の所属する生徒会メンバーにはあまり関わらないようにしていたが、こうして王子やその他もろもろと向き合って、ミュリエラは改めてこう思った。
せめて腹筋を割ってから出直せ、と。
昨今の貴族令息たちはとにかく筋肉が足りない。そういう男が好まれる傾向にあるのが問題なのだ。いくらミュリエラが布教しても、まったく広がらないどころが、自分の悪評だけが広まっていく始末。
確かに筋肉とは、体質もあるので努力すれば必ずしも得られるというものでもない。
筋肉の儚さにため息をついたミュリエラは、長い現実逃避を終えると、髪から髪飾りを無造作に抜き取り、テーブルの上へとことりと置いた。
「手違いがあったようですね。わたしの部屋に置かれていたので侍女が間違えてしまったようです。お姉様へのプレゼントだったら、お姉様も最初からそう言ってくださればよかったのに」
あくまでも手違いを主張しておく。
生徒であるミュリエラだからこそ生徒会として糾弾できるのであって、いくら王族であろうと、我が家の内情に口出しする権限は持っていないのだ。
しかしながら今この場をうまく切り抜けたとしても、この件をこのまま放置し続けたらまずいことはミュリエラにもわかる。
わかってはいるが、こうしてわざわざ人目のある場所で、生徒会というひとつの群れで、ミュリエラひとりを追い詰め叩こうとするのは、ちょっとばかしやり方がずるい気もしなくはない。普通の令嬢なら泣いている。
しかしそこはミュリエラ。『やられたらやり返すのでは遅い! 死にたくなければやられる前に、殺れ! 生き残ったやつこそ正義だ!』が、信条の傭兵団育ち。
傭兵団のちび姫だった頃を思い出しながら、ミュリエラは空気の読めない子供のように、場違いに明るく弾んだ声で王子に対峙した。
「両親からだと思って我慢してつけていましたが、これがわたしへのプレゼントでなくて、ほんっっとうに、よかったです!」
直接的な言葉を使えば不敬になるが、そうしなくても勝手に察して、深読みし、自己完結してくれるのが貴族というものだ。
案の定、王子の頬がほんのわずかに引き攣った。
おおかた、悪趣味だとか、センスが最悪だとか、ミュリエラが言外に伝えたと思ったのだろう。
「わたしもこの髪飾り、お姉様にはお似合いだと思います!」
姉の頬も引き攣った。
ミュリエラと対峙するときの姉はだいたい年中顔のどこかを引き攣らせてはいるので、今さらではあるが。
実際この宝石のあしらわれた髪飾りは姉にこそ相応しい。ミュリエラは髪飾りなどなくとも、その辺の草の蔓とかで髪を結べれば十分だ。ついでに花とか添えておけば若い娘っぽくなるだろう。
彼らが絶句している間にもミュリエラも攻撃の手を緩めるつもりはなかったので、「あっ、そうだ!」と、パチン、と手を打つことでまた空気を変えて見せる。
「今後は贈り物に、大きく殿下のお名前でも刻まれたらどうですか? そうしたら絶対に誰も間違えないかと思います!」
すぐものを失くす子供みたいに、持ち物にしっかりと名前を書いておけば、ミュリエラだってこんな無駄な時間を過ごさなくても済むのだ。
冗談半分で提案したのだが、なぜか誰も笑わない。しんと静まり返ったカフェテラスに、絞り出された王子の苦々しい声だけが響く。
「……助言、ありがとう。検討しておくよ」
(えぇ? 検討する余地があるの……?)
そんなペットの首輪みたいなもの、ミュリエラならば絶対に願い下げだが。
もしや王子渾身のジョークかと思って笑って見せたが、変な空気になっただけに終わった。
ちらっと見やったディオンが、額を押さえながら、これ以上余計なことをするなとばかりに首を振っている。そうやって向こう側にいても、こっそりミュリエラを気遣ってくれるところがディオンのいいところだ。
しかしそうしたいのは山々なのだが、王子様気取りの正真正銘の王子様は、どうやらこのままミュリエラを逃してくれる気はなさそうなのだ。
「きみはもうすぐ私の義理の妹になる。だからこの件を罪には問うことはないが、これまでに間違って持っていたものは、すべて彼女に返すんだ」
命令ならば仕方がないが、すべて、と言われたミュリエラは少し頭を捻ったが、早々に思考を放棄した。この茶番を終わらせるべく、ミュリエラは素直にイヤリング、ネックレス……と、身につけていた装飾品をひとつずつ外してテーブルへと置いていった。
今が放課後でよかった。これが昼食の時間だったら暴れていた自信がある。空腹時の獣は理性を失くす。新作ケーキが食べられなかったことは悔しいが、ケーキは逃げない。また後で来て食べればいいだけだ。
素直に従うミュリエラに、満足そうな彼らの前で、ミュリエラは制服の上着を脱ぐと、畳んでテーブルへと置いた。
うん? と疑問符を浮かべはじめた彼らが口を開かないのをいいことに、次は胸元のリボンを外してその横に並べ、靴を脱ぐと靴下を引き抜き、そこに詰め込んでからテーブルへと載せた。
そしてブラウスのボタンに手をかけ軽快にぷちぷち外しはじめたところで、誰よりも先に我に返ったらしいディオンが、慌てて自らの上着を脱いでミュリエラの肩へとかけて隠した。さすが騎士という素早い反応だった。筋肉がいい仕事をしている。
「なにをしているんだ! 正気か!?」
「ですが……殿下がおっしゃったでしょう? 全部返せ、と」
まさか自分の発言ゆえの暴挙だと思っていなかったらしい王子が目を白黒させている。
「いや!? 言ったけれど、そういう意味ではなく――」
「でも、全部両親からのプレゼントだと言われて渡されたものばかりで、どれがお姉様のものかなんて、わたしにはわかりません。だけど全部返せとおっしゃるから、とりあえず身につけているもの、全部お返しします。調べてわたしのものだったら、後で返してくれればそれでいいですから」
「だからってなにも服を脱ぐことまでしなくても――」
「いえいえ、王子命令なら従わないと。その結果わたしが裸になったのだとしても、それは王子命令ですから。王子命令で今から全裸になりますが、王子命令なので! みなさんご容赦くださーい!」
何度も王子命令を連呼し、みんな大好き第一王子が実はど変態であったことを強調すると、またしても静寂がカフェテラスを包み込んだ後、疑惑の眼差しが件の王子へと注がれた。
案外初心なのか真っ赤になった王子が、婚約者の妹を公共の場で辱めて喜ぶ変態疑惑を払拭するために、周りに聞こえるような渾身の力で無実を叫ぶ。
「王子命令じゃない! そんなことは命令していない!!」
王子の弁明を軽く聞き流して、ミュリエラは笑顔のまま、いいことを思いついたとばかりに、またパチンと手を打った。
「そうそう! ものだけではなく、貴族籍もお返ししないとですね! それはわたしの一存で決められることではないですけど……そうなると、わたしが家を継ぐ義務もなくなるので、お姉様が婿を取ってお家を継ぐことになりますよね?」
姉はそのことに気づいたのか、はっとしてミュリエラを見た。
姉が家を継がずに王族と婚約できたのは、ミュリエラが帰って来たおかげだったのだと、今さらながら気づいたらしい。
「そうなったらお姉様は殿下と婚約解消して、きちんとディオン様をお婿さんに迎えてくださいね?」
ミュリエラが頼めば両親はそのように動くはず。
それがわかっているのだろう、姉の顔色は悪い。
ブラウスのボタンをこっそり止め終えていたミュリエラは、肩から羽織らせられていた上着をすとんと床に落とすと、ディオンを振り返った。
ミュリエラといるより、仕えるべき王子や姉と一緒にいる方が多かったのでこの提案は喜ぶかと思ったが、意外なことに彼は愕然とした表情をして固まっていた。ミュリエラは笑顔を引っ込めて小首を傾げる。意外な反応だった。
もしかして少しは自分のことを想ってくれていたのでは、と、後ろ髪引かれつつも、とりあえずミュリエラはその場で美しくカーテシーをする。知識とマナーと教養だけは返却不可だが、これはもらっておいてもいいだろう。努力したのはミュリエラ自身なのだから、これはミュリエラのものだ。
「これで肩の荷が降りました。みなさま、どうぞ勝手にお幸せに」
薄氷の上の幸せに亀裂を入れたのは彼らだ。ミュリエラはその亀裂を踏み抜いて現実を見せてあげただけ。
悪意を持って人を叩こうとしたのだから、殺意を持って撲殺されても仕方がないと諦めてもらうほかない。
二件の婚約解消を引き起こしかねない状況を作ったのは自分たちなのだと、しっかりと自覚していただきたい所存だ。
心の中の傭兵団の保護者たちが、「ガハハ、よくやったぞ、ちび姫!」とご機嫌で酒を煽っている。
ミュリエラもにっこり笑った。
心の中のちび姫も、彼らを真似をして笑っている。がははー。
もちろん想像の中でも飲んでいるのは酒ではなく、林檎ジュースだが。
傭兵団という帰る場所がある。それはなによりミュリエラの強みである。
だが、貴族社会に揉まれて逃げて来たと言ったら、きっと追い返されてしまうだろう。
人間の群れから逃げるような軟弱な精神では、傭兵団に戻ってもすぐ死んでしまうからだ。
みんなに守ってもらえるほど、ミュリエラは小さな子供ではなくなってしまっている。
しかし王族を言い負かしてやったと言ったら、笑いながら受け入れてくれるはず。
ちび姫なら王族をも手玉に取れるぞ、と親バカ発言をしていた彼らに教えたい。首なら余裕で取れそうだった、と。さすがに笑うか引くかのどちらかだろう。
親元に帰った十歳から今日まで、結局両親からもらったものの中で執着心を持てたものと言えば、婚約者の筋肉くらいしかなかった。
そう考えると、やっぱり筋肉が惜しい。なにが楽しくてあの肉体美を、筋肉のなんたるかもわからないような姉にあげなくてはならないのか。それこそ宝の持ち腐れ過ぎる。
それでも涙を呑んでミュリエラは心の中でさよならを告げた。
(グッバイ、マイ、筋肉……!)
ディオンに未練はあるものの、それ以外の全部を捨てたところで、ミュリエラは成績優秀者。学院を退学する必要もなく、奨学金で卒業できる。
ミュリエラのいた傭兵団は貴族とも取り引きがあったため、仕事を請け負うにあたり最低限の教養を身につけさせられていた。家に帰ってすぐに家庭教師をつけられたが、すでに下地はできていたのだ。
いっそこのまま家を出て寮で暮らしたい。しかしそうなると最大の難関は両親の説得だ。おそらく許してはくれないだろう。
学院での状況を正直に話して家を出たいと言ったが最後、姉が叩き出されるという後味の悪い結末を迎えることになるのは想像に易い。
これまで必死に家族に馴染もうとしたが、やっぱり傭兵団にいるときの方が楽しかったように思う。
川で溺れそうになったり、崖から落ちそうになったり、足元をちょろちょろして間違って踏まれそうになったり、とにかくスリル満点だった。
(……あれ? わたし、死にそうになっている記憶しかない……?)
今さら愕然としていると、「ミュリエラ! 待て!」と、背中に声がかかり、振り向く前に追いついて来たディオンに肩を掴まれ、くるりと反転させられた。捨てたはずの筋肉がすぐに帰って来たので、嬉しいというよりもきょとんとしてしまう。お帰り、マイ、筋肉。
「あら、ディオン様」
「『あら、ディオン様』じゃないだろう! さっきのは、本気で言っているのか!?」
「どの部分かはわかりませんが……平民が貴族になるのは難しいけど、貴族が平民になるのは申請さえすればすぐでしたよね? わたしはもう全部いらないので、全部お姉様にお返ししますね」
「違う! そうじゃない!」
「返せと言ったり、返すなと言ったり、わたしには貴族用語がよくわかりません。なんなんですか?」
「だから、そういうことではなく……」
彼は髪をくしゃっと掻き回してから、ミュリエラを恨みがましい目で睨んだ。
「だから! なぜそう極端なんだ! きみの頭には零か百しかないのか? とにかく、誤解を解くためにも一度しっかりと話し合うべきだ」
(えー……)
話が通じる相手ならいいが、両親も姉も、ベクトルは違うがとにかく話が合わないのだ。そして今日、王子とも話が合わないことが判明した。ミュリエラの周りには、話の通じない宇宙人か、話のわかる筋肉しかいない。零か百だ。
「それと、そんなに簡単に貴族籍は抜けないし、婚約解消もできない。それができたら契約の意味がないだろう」
「それはそうかもしれませんけど……でも、ディオン様は……わたしよりも、お姉様と結婚したいでしょう?」
「はあ? 普通に嫌だが?」
「えぇ?」
ディオンがぐっと苦しげな表情で眉根を寄せる。
「……俺を捨てるのか?」
「えっ?」
「こっちはずっときみと結婚すると思っていたんだ。今さら他の人と言われても、気持ちが追いつかない。それがなくても、俺はきみがいい」
思いがけない告白にミュリエラは一瞬だけ乙女のように頰を染めてしどろもどろになったが、すぐに、この肉体美が名実ともに自分のものに! という欲望に逸れた。そして最終的にはちょっと拗ねることで落ち着いた。
「でもディオン様、いつもわたしのこと、避けるじゃないですかぁ……」
「初対面で抱きついてきた、体目当ての婚約者だぞ? なにをされるかわかったものではないから、警戒して距離を取るのは当然だろう」
「……」
「お願いだから否定してくれ」
嘘はつけないのでさらりと聞き流した。
叶うのならその胸筋に顔を埋め、上腕二頭筋に抱きしめられながら眠りたい。抱き枕のように内転筋に挟まれてもいい。なんなら吸いたいし舐めたいし喰みたい。欲望のままに。
なにか不穏な空気を察したのか、警戒心のこもった鋭い目つきで睨まれた。
「とにかく、一度戻るぞ」
手を引かれて渋々歩き出す。手のひらの剣だこ堪らないとか、思っていない。ミュリエラを傷つけないよう握る手のひらが優しいとか、思っていない。
いつも警戒して体には絶対触らせてはくれないが、こうして手だけは繋がせてくれていたことを思い出す。生徒会に入ってからは忙しくて会えない日々が続いたので、ずっと寂しかったのだ。
きゅっと手を握り返したミュリエラは、少しだけ愚痴をこぼした。
「……お姉様がなんて言っているかは知らないけど、両親や使用人が勝手にお姉様の私物やプレゼントをわたしの部屋に持って来るだけで、わたしはなにひとつ欲しいなんて言ったこと、ないんですよ。でも、こんなこと言ったところで、どうせ誰も信じないでしょう?」
「人のことは知らないが、俺は信じた」
ミュリエラはまっすぐ前を向いて歩くディオンの横顔を見上げる。
「いいか? そういうことはきちんと言葉にして言え。きみがなにも言わないから変な噂が消えないんだ。それにどう考えても、きみの両親ならそれくらいのことはやる。やるに決まっている。俺が保証する」
「ああ……確かに」
ミュリエラを信用しているというより、両親がとことん信用されていないと言った方がいいのだろうか。
ミュリエラの婚約者にされたディオンは、誰よりもその身をもって知っていることだろう。
それでもミュリエラがいいと言ってくれたことは嬉しい。そしてやっぱり筋肉は裏切らない。
「たぶん……あのひと言がいけなかったんだと思うんです」
「あのひと言?」
「わたし、家に帰って来てすぐの頃、お姉様のケーキを欲しがったんです」
「ケーキ……?」
『いいなぁ、お姉様! ミュリエラもそれ、欲しいです!』
自分のケーキを食べた後に、そうやって姉のケーキを強請った。だってミュリエラのケーキはショートケーキで、姉のケーキはチョコレートケーキだったから。
どちらも食べてみたかったのだ。
同じケーキならば、こんな悲劇の連鎖が起きることはなかったというのに。
滅多に食べられないケーキを前に、ミュリエラはつい、おねだりをしてしまったのだった。
「だってわたし、傭兵団にいたんですよ?」
大皿に盛られた料理を、一斉に奪い合うのが傭兵団での食事スタイルだった。
食べ物の前ではみな、とにかく凶暴な獣となる。
ミュリエラも例に漏れず必死で食事に食らいつこうとしていたが、あまりに小さ過ぎた。食べたい料理に手も届かない。ようやく届いたかと思えば、肉の切れ端と誰にも見向きもされなかった野菜しか残っていないということもままあった。
一応、手加減はされていたのだろう。切れ端でもきちんと肉を残してくれていたのだから。
成長するにつれ知恵をつけて、わけ前を得るためのあらゆる手段を獲得したが、今でも空腹になると腹の中の獣が騒ぐ。
それに加えて傭兵たちには、お菓子を食べる習慣というものがなかった。
甘味といえば蜜蜂の巣から採った蜂蜜や、野山になっている果物ばかり。
ケーキなんてまさに、夢のような食べ物だった。
欲しいと思ってしまったのは、仕方のないことだった。
姉のケーキが取り上げられるのを見たとき、ミュリエラもすぐに後悔したのだ。欲しかったのはひと口だけだったから。
しかし戸惑うミュリエラに食べるよう勧めたのは、ほかでもない、ケーキを取り上げられたはずの姉自身だった。
姉としても、行方不明だった妹に優しくしなければという思いがあったのだろう。だからミュリエラは喜んで食べた。将来こんなことになるとは思ってもみなかったから。
「本当に、ケーキ以外、欲しいなんて言ったことはないんです。今回の髪飾りだって、勧められたから仕方なくつけただけで」
公爵令嬢がアクセサリーのひとつもつけていないのは恥だと言われるから身につけているだけで、ミュリエラが宝飾品を好きだと言ったことは一度だってないのだ。
「市井だと、宝石なんて持っていたら、次の日の朝、川に死体が浮きますよ?」
だから目立つ場所に宝石をつけている令嬢たちが未だに信じられないのだ。カルチャーショックだった。お忍びで市井に行くと耳にした日には、明日見知った顔が川に浮くかもしれないと、内心ひやひやしたものだ。
だからこそ宝石のあしらわれた髪飾りなど、本当はミュリエラはつけたくなかった。そう王子に言ったことは本心だった。嫌がらせ半分ではあったが。
ああいう装飾品は、姉のような根っからの貴族令嬢が無防備につけるべきものなのだ。
「……もしかしてだが、俺からのプレゼントを身につけてくれないのは、そのせいか?」
「え? ディオン様もなにかプレゼントしてくれていたんですか?」
カードを添えてくれたら誰からの贈り物なのかがわかるのだが、ディオンからのカードつきの贈り物は特になかったと思う。きちんとすべてに目を通せていないのでわからないが。
そもそも嫌われていると思っていたので、ディオンからの贈り物などないと思っていたのだが……この様子から察するに、違ったのかもしれない。
もしかすると、部屋に山積みになっている箱の中に、彼からの贈り物が紛れているのだろうか。
申し訳なくなって眉を下げるミュリエラに、彼は色々察したらしく、心底やるせないというようにため息をついた。
「……今度からケーキだけを贈るようにする」
消えものなら直接その日の食卓に載るだろうから、間違いないと言えば間違いない。
「お気遣いありがとうございます。でも、次の婚約者はお姉様になるのに、わたしにケーキを……?」
「だから婚約解消はしないって言ったばかりだろう……」
ディオンが呆れたようにため息をつくが、王族の前で啖呵を切ったミュリエラが、お咎めなしなんてことがあるのだろうか。
「平民に戻っても結婚してくれるということですか?」
「伯爵家の三男なんて、ほぼ平民みたいなものだろう」
それは違う気がすると思いながら、ディオンに連れられたミュリエラは、カフェテラスへと舞い戻って来てしまった。
王子と姉とその他生徒会メンバーたちはどうにか気を持ち直していたが、ミュリエラにどう対応していいのかわからないという空気が広がっている。
「とりあえず、制服を着て靴を履いてもらっていいかな? もちろん、靴下も」
そう言われて、とりあえず制服は身につけた。靴下と靴も履くと、ディオンにエスコートされて席に着く。きちんと話せと促されて、仕方ないので腹筋を割って……いや、腹を割って本音を語ることにした。
「わたしはお姉様のものを自分から取ったりはしていません。お父様とお母様が、勝手にお姉様から取り上げてわたしのものにしてしまうんです」
王子が姉から聞いていた話と若干の齟齬の部分を突いてくる。
「きみが、断らなかったのも事実だろう?」
「発覚した当初はきちんと、それはお姉様のだからいらない、って伝えました。だけどもう、どれがお姉様のものでどれがわたしのものなのか、全然わからない状態になっています。わたし個人がどうにかできる領分を超えているので、どうにもなりません。しがらみを含めて、もう全部捨てたいです」
ただし筋肉を除く、と心の中でつけ足してみる。
聞こえたわけでもないだろうが、後ろに立ったディオンの手がそっと肩に触れた。できれば背後からぎゅっと抱きしめてもらえたら色々感じられて嬉しいのだが、さすがにそこまではしてくれないらしい。身持ちの固い婚約者だ。
ミュリエラの言葉があまりに実感がこもっていたからか、王子はすっかり考え込んでしまっている。
「お姉様」
姉に向き合うと、猛禽類に睨まれた小動物のようにびくっとされた。いつもながら、実の妹相手になぜそうびくびくするのだろうか。
王子が姉を庇うように口を挟む。
「きみが、がははーと大口を開けて笑いながら、棍棒を振り回して、庭にいくつも陥没穴を開ける姿を見てトラウマになったらしい」
いつの頃の話だ。繊細過ぎるだろう。
「棍棒じゃなくて、鹿の角です」
しっかりと訂正を入れておくと、ディオンが冷静に突っ込んだ。
「そちらの方がよほど恐怖だろう」
ミュリエラの知る棍棒とは、ミュリエラの背丈ほどもある打撃部分に無数の棘がついたものだ。ひと振りで大の大人が三人ほど吹き飛んだのを見たことがある。どう考えても鹿の角の方が安心安全だろうに。
「お姉様だって、わたしがなにか言ったところでもうどうにもならないって、わかっているんでしょう?」
「…………そう、ね」
「これはもう、殿下が悪いですね」
「えっ、私?」
人に矛先を向けておいて、なぜ自分には向かないと思っているのか。
「わたしに文句をつける前に、王子妃教育が必要だとか適当な理由をつけて、お姉様を王宮に連れて行ってしまえばよかったのに」
「さすがにそれは……。王室には慣例というものがあって」
「自分はなにも手を打たないくせに、人の批判だけはご立派で」
「ミュリエラ」
軽い嫌味をディオンに窘められる。
だがいい加減言わせて欲しい。
「本当にお姉様を助ける気があるのなら、挑む相手が違うことくらい、考えたらわかるでしょうに。わたしがお姉様を本気で疎んでいたら、とっくに殺ってるんですよ。同じ家に住んでいるんですよ? ものの五秒もあれば首の骨なんか折れますし、わたしが手を下したとわからないように階段から落ちた事故のように偽装したり、獣に食わせて証拠隠滅したり、そんなの目を閉じていてもできるんです。できるけど、やってないんです。そこをもっと評価してください」
棍棒を振り回す妹へのトラウマに、首の骨を折られたり獣に食われたりする想像が追加されたのか、姉はすっかり蒼白となって倒れそうだ。これで本当に王子妃など務まるのだろうか。あっさりと政敵や他国の工作員に暗殺されてしまうのではないだろうか。心配だ。
「……ディオン。今日はじめて話したが、こういう感じのご令嬢なのか?」
「まだ礼節を保っている方です」
「これでか?」
「この可憐な見た目に騙されないでください。返り血を浴びながら野生の鹿をひとりで捌いて庭で焼くような女です」
「えっ、やだ、いつ見たの……? そんな、恥ずかしい……」
ミュリエラは両手で頬を包んで恥じらった。人に見られているとは思わなかった。言ってくれればよかったのに。
「なぜ公共の場で服を脱ぐことよりも、鹿を捌く姿の方が恥ずかしいんだ……」
ディオンが頭痛がするとばかりにこめかみを押さえているが、そんなの返り血を浴びていたからに決まっている。玄人は返り血など浴びないのだ。
「返り血は恥ですが、わたしの肉体に恥ずべきところはありません! ディオン様のために腹筋も割ってあります!」
「まったく心に響かない」
「そんなぁ!」
一刀両断されて愕然とする。
「確かに、腹筋が割れてる女の子は、ちょっと……ね」
「殿下の好みなんてどうでもいいです!」
ミュリエラはキッと王子を睨みつけた。筋肉のない者に発言権などない。
「義理の妹予定でなかったら、本当に不敬罪に該当するんだが」
「一番の不敬はうちの両親です。本当にもう、どうにかしてください……! わたしは全部いらないんです! 筋肉以外、王家で引き取ってください!」
「……ディオン、きみって、筋肉のおまけなの?」
「……傷つくので、それ以上言わないでください」
ディオンの顔に暗い陰が落ちたのを見て、ミュリエラは大いに慌てた。
「待ってください、それは違います! ディオン様の中身があってこそ築かれた尊い肉体美です! 中身がディオン様でその筋肉を維持してくれるのなら、顔面は鹿でも熊でも愛せます!」
「勝手に人の顔を鹿や熊にするな!!」
「熱烈な愛の告白なのに!」
「だから、全然心に響かない!」
「えぇ……? じゃあ、どう言えばいいんですか……?」
「筋肉がなくなってもいいと言われない限り無理だろう」
「そ、そんな……」
筋肉のないディオンなどディオンではない。
ミュリエラやや目を逸らしつつ、人差し指を突き合わせながらぽそりと言った。
「……ディオン様の体が豚でも愛せます」
「豚の体はほとんど筋肉だ!!」
悪知恵の働くミュリエラは論破されてうなだれた。
欲しくないものばかり手に入り、一番欲しい筋肉だけがこの手に入らない。これが業というものなのか。
「痴話喧嘩は後にしてもらって、話を戻しても、いいかな?」
「……どうぞ」
「きみの言い分はとりあえずは理解した。娘が何年も行方不明になっていたのだから、公爵夫妻の精神状態が不安定でも仕方ないとは思う。そう思ってこれまで見過ごしてしまった私にも確かに非はある」
王子が姉の肩を引き寄せて見つめ合う。
「殿下……」
周りがしらーとしていることに気づいているのかいないのか。ふたりの世界に入り込むのだけはやめて欲しい。いたたまれない。
「きみの言うように、彼女を城に呼び寄せるのが最善策かもしれない」
ミュリエラはそれを聞いてほっと息をついた。
姉を引き取ってもらえるのなら、少なくとも今後、姉の私物や贈り物がミュリエラの部屋に紛れ込むことはなくなるだろう。
そして家で姉と顔を合わせることもなくなる。やっぱりどうしても気まずいのだ。両親がミュリエラばかり構おうとするから。
ミュリエラに行方不明になる前の記憶はないし、今だって姉妹らしいことはなにひとつしていない。これでようやく面倒ごとから解放されるという気持ちの方が大きくても、姉に幸せになって欲しいという気持ちも嘘ではないのだ。
気が晴れたミュリエラは、どさくさに紛れてディオンに抱きつこうとしたら寸前で躱され、一歩距離を取られた。
「油断も隙もない」
「そんなぁ……」
心の距離が近づいたと思ったのに、また元の距離感に戻ってしまった。
ミュリエラの恋が実るのはまだまだ先になりそうだ。
**
ディオンはテレサがひとりになったのを見計らい、周囲に人がいないことをさっと確認してから声をかけた。
「もうミュリエラに構うな」
ぴたりと足を止めたテレサは、怪訝そうにゆっくりと振り返る。本当に似ていない姉妹だ。顔の造りは若干似ている気もするが、雰囲気は正反対だ。ミュリエラが陽なら、テレサは陰。陰であるだけならいいが、そこにいくばくかの毒もある。
テレサはディオンの不快そうな表情を受けると、いつものようにそっと目を伏せた。まるで世界のすべてから虐げられているとでも言わんばかりの被害者面に、ディオンは眉根を寄せる。
「なにを言っているのかわからないわ、ディオン」
ディオンは彼女の、こういうところが苦手だった。少し悲しげに目を伏せる。それだけで周囲が勝手に彼女のことを憐み同情する。
ミュリエラが“欲しがりの妹”として悪評を立てられるようになったのは、入学してからのことだ。
意図的になのか、無自覚なのか、被害者ぶることでゆっくりとテレサがそういう土壌を作り上げてきた。
結果、生徒の多くがテレサの味方をし、ミュリエラははみ出し者として遠巻きにされている。
実際彼女たちの両親がミュリエラばかりに愛情をかけているのは事実なので、ディオンとしても噂の火消しがうまくいかず、ずっともどかしい思いをしていたのだ。
冷遇されるテレサに少なからず同情もあった。だからこれまではテレサ自身を非難してはこなかったが、さすがに王子を味方につけての糾弾はやり過ぎだ。あれではまるで悪趣味な断罪劇ではないか。
ディオンは生徒会側に座ってはいたが、どちらの味方についていたわけでもない。とりあえずミュリエラが髪飾りを返さないことには王子の怒りが収まらなかったので、それまで静観していただけなのだが、話が予想外の方向に転がって一番慌てたのはきっとディオンだ。
見た目にそぐわず豪快なところのあるミュリエラだ。止めなければ躊躇いなくあのまますべて服を脱ぎ捨てていたことだろう。あの場にいて本当によかった。もし自分以外の誰かが少しでも彼女の肌を見ていたかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうになる。
「あなたもあの子が大事なのね……」
「当たり前だろう。婚約者なんだから」
ディオンは嫌いだからミュリエラから距離を取っているわけではない。むしろその逆だ、彼女が不用意に抱きついて来るので、節度ある距離感を保っているだけなのだ。
ディオンとて健全な男子であり、無防備に抱きつかれて冷静でいろと言う方が無理な話であった。
それが好意のある相手ならなおさらだ。
何度理性が揺らぎかけたことか。
こっちは常に己との戦いだというのに、ミュリエラにはまったく伝わらないのだ。
ミュリエラは知らないだろうが、顔合わせのとき、ディオンはほとんど一目惚れだった。
わたあめのようなピンクブロンドのふわふわの髪に、愛嬌があって愛らしい顔立ち。市井で育ったためか、小さな体でくるくるとよく動き回り、屈託なく笑う姿はまるで大輪の花が咲いたようで、周りまで明るい気分にさせる。そんな貴族らしさのないところに惹かれる者は意外と多いだろう。
出会って三秒で抱きつかれたディオンは、無防備に押しつけられた発育途上の小さな胸の膨らみやら、自分の体を怪しい動きで這い回るその小さな手やらに、動揺して思考が完全に停止してしまったのは忘れたい過去のひとつである。
男兄弟ばかりの末っ子として育ち、騎士を目指してひたすら剣一筋で生きてきたディオンの心を奪うのに、十分なほどに衝撃的な出会いだった。
頭が真っ白になっている間に気づいたら婚約者に内定していたわけだが、そこで異を唱えなかったのは、純粋に恋に落ちていたからである。
体目当てな部分に思うところがあったが、ミュリエラの好みの筋肉のつけ方を意識してしまっているあたり、今後もディオンに勝ち目はない。
そんなディオンも、物理的距離こそ適切に保ってはいるが、婚約者として贈り物はきちんとしていた。しかしそのどれひとつ使われる様子がないので気に入らなかったのかとその都度ひそかに落胆していたのだが、それがまさか本人の手元に届いていないとは思いもしなかった。
なぜ直接手渡しにしなかったのか。
気恥ずかしかったからだが、後悔しかない。
あまり貴族らしくないミュリエラだが、最低限礼儀というものは持ち合わせているので、時折り、鹿の骨を自分で削って作った呪物風のブレスレットや、『大臀筋の調べ』といういかにも怪げなタイトルの本などが送られてきてディオンを大いに困らせているが、なにもないよりは、まあ、嬉しいのだと思う。気持ちだけは、嬉しい。
無骨なディオンでも、思考が筋肉に振り切っているミュリエラでさえも、贈り物にカードを添えることは常識として知っている。
それがなかったということはつまり、誰かが意図的にカードを隠していたにほかならない。
元々両親からのプレゼント攻撃に辟易していたミュリエラだ。ディオンからの贈り物だと気づかなければ、箱を開けもしなかったのだろう。
そしてそんな嫌がらせができるのは、おそらく目の前の女だけ。公爵家の使用人たちはテレサに同情的なので、言えば協力しただろうことは想像に易い。
おかしいと思っていたのだ。ミュリエラはテレサに贈られたものばかり、示し合わせたかのように身につけて学院に来ることを。
テレサに対する嫌がらせというのならわかるが、ミュリエラはそういう陰湿な嫌がらせをちまちまとするタイプではない。
本人が言っていたのように、本気で邪魔だと思っていたら事故に見せかけて殺すくらいはやる。そういう組織にいて、そういう英才教育をされていたのだから、なおさら説得力があった。
ミュリエラはただの傭兵団にいたのだと思っているようだが、それはあくまで表の顔だ。彼らは亡国の元工作員集団であり、かつて祖国を売って、国ひとつ潰している。
ディオンもたまに監視されているなと感じるときがあるが、結婚するまで手を出すなよ、見張ってるからな、という、傭兵たちからの静かな脅しだと思っている。
行き過ぎた行動を取れば、ミュリエラが手を下さずとも傭兵団の誰かがなにかしらの報復をするはずだ。
ミュリエラは自分が公爵家へと帰って来て公爵家を継ぐことになったから、姉が気兼ねなく王太子と婚約できたと思っているが、それは前提が違っている。
もしミュリエラが行方不明になっていなければ、王子の婚約者はミュリエラで決まりだったのだ。
本来ならばミュリエラと王子との間に再度婚約話が持ち上がるはずだった。帰って来たときの年齢は十歳。まだ令嬢としてやり直せる年齢だ。
ディオンは近衛騎士として彼らに仕え、テレサは長女として婿を取り公爵家を継ぐ。
ミュリエラがおかしな性癖を開花させていなければ、きっとそうなっていたに違いない。
ミュリエラにとにかくあまいあの両親は、ミュリエラの欲しいものはなんだって揃える。しかし筋肉のある男など騎士団を探せばいくらでもいるというのに、なぜ自分が選ばれたのかディオンは最初こそ疑問を持ったが、思い当たる節がひとつだけあった。
王子はディオンを好んでそばに置くが、テレサはディオンが嫌いなのだ。口にこそしないが態度でわかる。
おおかた、両親の前であえて、ディオンと親しいような口ぶりで鍛えていることを褒めでもしたのだろう。テレサのものはミュリエラのものと信じて疑わないあの両親は、うまく誘導されたわけだ。
自分の嫌いな男を実の妹に当てがって嫌がらせをしようと画策するあたり、性格の悪さが突き抜けている。
ゆえにミュリエラが後継であることを放棄してもテレサがディオンを婿に迎えることはなく、ディオン自身も、本来ならば公爵家に婿入りできるような立場ではないとしっかりと弁えていた。
「やり過ぎると、自分の首を絞めることになるぞ」
ミュリエラに指摘されるまで、王子との婚約が白紙になる可能性を忘れていたのだ。これに懲りて少しは反省するだろう。
「なんのこと?」
シラを切り通すとわかっていた。そしてこれ以上追及しても無駄なこともわかっている。
結局ディオンにできることなど、同じ生徒会に入ってそばで監視するくらいのことしかないのだ。
「忠告はしたからな」
念押しして踵を返すと、背後でテレサが忌々しげにつぶやく声を耳が拾った。
「…………さっさと手篭めにでもされればいいのに」
ディオンは一瞬、足を止めた。
彼女は一体、どちらの意味でそう言ったのか。ミュリエラがディオンに、なのか、ディオンがミュリエラに、なのか。
彼女は果たして、どちらのつもりでそう吐き捨てたのだろうか。
答えが恐ろしくて、聞くに聞けない。
結局ディオンはなにも聞かなかったことにしてその場を後にすると、植え込みに隠れて待ち伏せしていたらしいミュリエラが真横から飛びかかってきた。
「ディオン様!」
さっと躱わすとミュリエラは少し拗ねた顔をしたが、すぐに表情を明るくした。
「最適解を見つけました!」
「最適解?」
「わたし、ディオン様の筋肉が好きです!」
「……知っている」
期待して損したというのが表情に出ていたのだろう、思った反応と違うとばかりに、ミュリエラが大慌てて言い募る。
「違っ、そうじゃなくて! ほかの筋肉に目移りしたりしません! 抱かれたいのはディオン様にだけなんです!!」
それは大声で言うようなことではない。意味をわかって言っているのだろうか。
だが、思いがけずに熱烈な告白をして胸に飛び込んで来たミュリエラを、今度は突き放すことができなかった。
ディオンは片手で口元を隠す。顔が赤くなっている自信がある。もしかすると耳まで赤いかもしれない。
最適解かはわからないが、これまでのよりはずっとよかった。
自分だけ、というのが特にいい。
「……本当に?」
「本当です。もうずっと、ディオン様しか追いかけていません」
言われてみればそうかもしれない。ミュリエラがそういう意味でよそ見をしたことはない。よその筋肉に対して、評論家気取りで上から目線の謎の評価はしていたが、賛辞するのはディオンにだけだった。
「ディオン様が欲しいです。ディオン様をください」
「……婚約解消するんじゃなかったのか?」
実は少し根に持っていたので、意地悪でそう言ってやると、ミュリエラは後悔を滲ませながら、胸に頰を押し当ててきた。頰の動きが明らかに怪しいが、今は許す。
「そう思ったんですが、やっぱりお姉様とふたりで一緒にいるところを見ると、嫌だなぁって……」
どうやら嫉妬してくれたらしい。かわいい。
「わたし、欲しがりの妹らしいので、欲しいものは手に入れるまで諦めませんよ。既成事実を作ってでも離れませんから!」
「既成事実だけはやめろ!」
本気で傭兵たちに殺される。
「それとですね、男性は筋肉よりも、脂肪が好きだということを思い出して……」
そう思わせぶりに言ったミュリエラが、ディオンの背に回した腕の力を強めると、腹に胸部をむにっと押しつけてきた。前に抱きつかれたときよりも存在感を増しているそれに、頭が沸騰しそうになる。
だめだ。誘惑に乗ったら死ぬ。殺される。
ミュリエラとはかなり体格に差があるので、準備もなくことを成し遂げようとしたら傷つけるに違いない。ディオンはそう自分に言い聞かせて、どうにか冷静さを保ちつつ引き剥がしたが、ミュリエラは不満げだ。
(まったく、人の気も知らないで……)
ディオンの体を愛でたい一心なのだろうが、その先になにが起こるのか絶対にわかっていない。
わかってやっているのなら、とんだ小悪魔だ。
「自分を大事にしろ」
「していますよ?」
「男は狼だって教わらなかったのか?」
「狼は何度も負かしたことがあるので、大丈夫です!」
とても清々しい笑顔でそう言われたが、そういうことではない。
「とにかく、抱きつくのは禁止だ。既成事実も作らない。学生の身でそこまで背負いきれない」
子供ができたらどうする気なのか。
結婚で退学する女子生徒はわりといるのだが、せっかく学ぶ機会があるのだから、ミュリエラにはぜひ学院を卒業して欲しい。
その頃には心身ともに成長していることだろう。そう信じたい。
「……キスも、だめですか?」
精一杯背伸びをして、こちらへと目を閉じた顔を突きつけてくるミュリエラに、ディオンはうめき声を漏らしてから、とうとう白旗をあげた。キスくらいなら袋叩きに遭わないはず。たぶんだが。
かなり身長差があるので、ゆっくりと身を屈めて、ミュリエラの頰に手を添えて、軽くだけ唇を触れ合わせた。
(口、小さっ……やわらかい…………いや、だめだだめだ)
これ以上だと抑えが利かなくなる。
自制心を総動員してディオンはそっと唇を離すと、屈めていた身を起こした。ミュリエラは自分の唇に細い指で触れながら、ちょっと恥じらうように頬を染めつつ余韻に浸っている。
思えばこれがファーストキスだ。
それがこんな学院の片隅でよかったのだろうかと思いもしたが、ミュリエラは安定のミュリエラだった。
「ついでに大胸筋にキスマークをつけさせてもらっても……?」
「いいわけないだろう!」
なんのついでなんだとディオンがうなだれていると、制服の裾をくいくいと引かれた。
「じゃあ、もう一回」
ディオンの袖口を摘みながら、また背伸びしながら目を閉じる。
このかわいらしいおねだりを断れる猛者がいるのだろうか。
根負けしたディオンは、さっきよりも長めにキスをした。
キスだけ、キスだけ、と、どうにか己を律しながら。
この成功体験をいかして、キスのおねだりを覚えたミュリエラが、ことあるごとにキスをねだって翻弄してくることになるとは露ほども思いもせずに。
最後までお読みいただきありがとうございます!
欲しがりの妹予備軍の幼女を筋肉留学させたら、筋肉以外欲しがらないヒロインになった、というお話でした。(たぶん)
ちなみにケーキは別腹です。
【人物紹介】
ミュリエラ(16)
公爵家生まれ傭兵団育ち
傭兵たちに育てられなければ、本物の欲しがりの妹になっていた
好みはアスリート系のマッチョ
筋肉から入ったが、ディオンのことは外見も中身も丸ごと愛している
ディオンの裸の胸に包まれながら毎朝幸福な目覚めをすることを今から楽しみにしているが、残念なからディオンはパジャマはしっかりと着る派
傭兵団のような賑やかな家庭が理想なので、子供はたくさん欲しい
傭兵団時代と学院での知識を最大限に生かして、副作用のない媚薬を作成中
既成事実万歳
ディオン(18)
近衛騎士予定の伯爵家の三男
ミュリエラに翻弄される人生
ミュリエラを遠ざけるのは、理性の問題+傭兵たちに睨まれているから(うっかり手を出したら袋叩きに遭う)
理性と自制心は誰よりも強固
ミュリエラのことは好きだが、あの家族とうまくやっていけるか、今から不安しかない
ミュリエラからもらった怪しいドリンクを池に捨てたら、なぜか鯉が大繁殖した