【第3話 名の檻にて】
「……彼、本当に封印されていた存在なの?」
次の日、灰音が千歳に詰め寄った。
禁書庫の出来事をすべて話すわけにはいかない。
それでも、少しだけ——ほんの少しだけ、真実に触れた言葉を伝える。
「たぶん、ね。でも彼はもう……呪詛を振るう気はないみたい」
「そんな言葉、信じるの? 百年以上も前の“神堕ち”よ」
灰音の反応は当然だ。
だが、千歳には確信があった。
彼の声が、触れた指先が、偽物ではなかった。
放課後。
或は誰もいない教室で一人、黒板に式の軌跡を描いていた。
柔らかな手の動き。そこに狂気も怨念もない。
「先生」
「……君か」
或は振り返らずに言った。
「私の目を見れば、分かるだろう? 私はもう、自分の意志では動けない。命ずる声があれば、それに従う。名を持たぬものとは、そういう存在だ」
「それでも、今の先生には“意志”があるように見える」
千歳は彼の横に立った。
白板に浮かび上がる式図。そこには“封印解除”の逆演算が記されていた。
「これ……自分で、再封印しようとしてるの?」
或はようやく振り向き、微笑んだ。
「私は、元に戻るべきなんだ。君を喰らわずに済むなら、それがいい」
「でも、それって……死ぬのと同じでしょう」
彼は答えなかった。
ただ、千歳の目をまっすぐに見つめる。
それが唯一の答えだった。
千歳は胸の奥で、何かがまたちぎれる音を聞いた。
それでも、今はその破片を拾う余裕はなかった。