第5話 神秘王の願い
『妖精王様、どうかどうか、お願い申し上げます。私の願いをお聞きください――』
「……妖精王様って、わたくしたちのこと?」
「しっ! ちょっと口を閉じろ!」
素直に問い返したレティシアの口を、アルフレッドは手で覆って黙らせる。そんな風に強引に制止されたことのなかったレティシアは、驚きで言葉を止めた。
アルフレッドは警戒の眼差しで本棚を睨み付ける。声の出所は、整然と並べられた本と本の間――ちょうど一冊分が抜き取られているように空いた狭い空間からだった。
その本棚に収められた本の背表紙には同じ国の名前が書かれており、左右の本棚を含めてその国の歴史書が順番に並んでいるように見える。
国の名前はフロリアース国。少なくとも、レティシアには見覚えのない国名だ。
『妖精王様、そこにいらっしゃるのですね。私の願いをお聞き届けください。このままでは我が国が滅んでしまうのです』
切実な声色で懇願され、レティシアは思わずもっとよく聞こうと身を乗り出そうとする。しかし、アルフレッドはそれを許さず、小声で彼女を諫めた。
「相手にする必要はない。妖精か魔物の悪戯だろう」
「でも、この方は困っていらっしゃるみたいよ?」
「だから何だ。赤の他人の困りごとを解決する余裕が、今の俺たちにあるとでも?」
正論をぶつけられ、レティシアはぐっと黙り込む。しかしすぐに反論をしようと口を開き、頭に思い浮かんだ詭弁をそのままアルフレッドに正面からぶつけた。
「殿下、今のところこの空間で起きた異変はこの声だけですわ。この方に協力することが脱出の手がかりを見つける結果になる可能性があるのではなくて?」
「それはそうかもしれないが……」
無論、レティシアにあるのは、そのような打算ではなく声の主を助けたいというシンプルな善意だ。
アルフレッドにもそれは伝わったのか、やりにくそうに顔を歪めた後、唸りながら考え込み、ちらりとレティシアのほうを伺う。そして、レティシアがまだ諦めずにこちらを見つめているのを視界に入れ、さらに悩んだ後に特大のため息をついた。
「分かった。話を聞くだけだからな」
「ふふ、ありがとうございます、殿下。見た目通りお優しい方なんですね」
「暗に俺に威厳がないと言いたいのか? 煽てるのか喧嘩を売るのかどちらかにしてくれ」
「まあ、そんなつもりは決して。わたくしはただ殿下を褒めただけですわ」
くすくすと可憐に笑うレティシアに毒気を抜かれ、アルフレッドは苦々しい顔をしながら、本棚の向こう側へと話しかけた。
「そこにいるお前。話を聞いてやる。お前は誰で、どういう事情があって、何を願っているのか説明しろ」
『ああ、妖精王様! ありがとうございます! 私はフロリアース国第一王子のジュナスと申します。数日前、大臣たちによってこの森に置き去りにされたのです。このまま私が帰らなければ、フロリアース国は大臣たちのものになってしまいます。どうか我が国を助ける力をお授けください!』
本棚の向こう側で懇願するジュナスという青年の声は、必死そのものの色を孕んでいた。事実として、数日前に置き去りにされたという話が本当なら、彼の命の灯火は消えかけているのかもしれない。
アルフレッドは険しい顔で本棚を睨み付けた後、端的にジュナスに言葉を投げかけた。
「少しそこで待て」
そう断りを入れると、アルフレッドはレティシアの手を引いて本棚から距離を取る。レティシアは不思議そうに彼に問いかけた。
「殿下、どうされましたの? 何か気づかれたことでも?」
「お前も気づいただろうが、あいつは恐らく『フロリアースの神秘王』だ。本物かどうかは分からないがな」
「『神秘王』……? 殿下はそのフロリアースという国をご存じなのですか?」
一切心当たりがないという顔で首をかしげるレティシアに、アルフレッドはまるで別の生き物を見ているかのような目を向ける。
「本気で言っているのか? 『フロリアースの神秘王』なんて、常識レベルで有名な話だろう」
「申し訳ありません。植物以外のことには興味がなくて」
しょんぼりと肩を落とすレティシアに、何か思うところがあったのか、アルフレッドはそれ以上彼女の無知を責めることなく、偉そうに話し始めた。
「……ふん、まあいい。説明すれば良いだけの話だからな。寝物語のような説明の仕方になるが笑うんじゃないぞ」
昔々、フロリアース国にジュナスという王子がいました。
ジュナスはとても優秀で、誰もが皆、彼が良き王となることを信じて疑いませんでした。
しかしそれをよく思わなかった悪い大臣によって、ジュナスは神秘の森へと置き去りにされてしまいます。
三日三晩、さまよった後に彼が見つけたのは、妖精王が宿るとされる世界樹でした。
ジュナスが世界樹に祈りを捧げると、妖精王は妖精の加護を彼に授けました。
その力を使って森から抜けだしたジュナスは、悪い大臣をこらしめて、妖精の加護厚き『神秘王』として立派に国を治めたのでした。
「……こんなところだ。ちなみにフロリアース国は、今我が国がある土地に千年前に存在していた国の名前だ。伝わったか?」
他人に物語を語り聞かせるという行為に自信がなかったからなのだろう。アルフレッドは不機嫌そうに顔をしかめながら語り終えた。そんな彼に、レティシアはぱちぱちと小さく拍手をする。
「殿下ってお話を語るのがお上手なのですね。もしわたくしが殿下の妹でしたら、きっと寝物語を毎晩せがんでいたと思いますわ」
素直な褒め言葉を口にしているだけという様子のレティシアに、アルフレッドは照れているのを隠しているのか、目をそらして早口で答えた。
「お世辞はいい。それより今目の前で起きてることを考えるぞ」
「ええ、そうですわね」
レティシアが頷いたのを確認し、アルフレッドは声が聞こえてくる本棚を軽く指し示した。
「彼が本当にジュナスなら、伝説でいう世界樹への祈りのシーンが本棚の向こう側で起きているということになる」
「まあ。では、この本棚の向こう側は過去に繋がっているということかしら」
「荒唐無稽だが、そう考えるのが自然ではあるな。何しろ世界樹に吸い込まれて、こんな謎の図書館に閉じ込められたなら、次にどんな超常現象が起きてもおかしくはないさ」
もはや諦めすら感じる言い方で、アルフレッドは吐き捨てる。レティシアは困ったように頬に手を添えて首をかしげた。
「だとすれば、わたくしたちは本物の妖精王として、彼に妖精の加護を授けなければならないのではないかしら」
「はあ? 俺たちが加護を?」
「だってそうでなければ、歴史が変わってしまうのではなくて?」
レティシアの指摘にアルフレッドは目を見開くと、口元に手を添えてぶつぶつと考え込み始めた。
「正直、過去の人間がどうなろうと知ったことではないが、ジュナスはよりにもよって、我が国の地を過去に治めていた王だ。歴史が変わったら、俺たちの国そのものがなくなる可能性もありえるだろうな。それを防ぐには俺たちが妖精王のふりをして妖精の加護を授ける必要があるのも道理か」
深刻な面持ちで思考を整理し、アルフレッドはこみ上げてくる不安を押し隠すしかめっ面でレティシアに問いかける。
「だが加護といっても、どうすればいいんだ? 俺たちは妖精に命令するどころか、妖精を見ることもできないんだぞ。ジュナスを大臣たちから守るような力を与えられるわけがない」
「ええ、妖精は人の域を超えた神秘の存在ですもの。言うことを聞かせるなんてとても……」
レティシアも困り果てたという吐息をふうと吐き出しながら、優雅さを感じる所作で考え込む。アルフレッドはそんな彼女の様子を見ながら、棘のある言葉を投げかけた。
「妖精を焚き付けるのだけは簡単なんだがな。お前が俺にやったように」
「まあ、あれは殿下が勝手に自滅しただけですわよ?」
嫌味を正論で返され、アルフレッドは悔しそうに顔を歪める。
その時、一つのアイディアがレティシアの頭に浮かび、彼女はアルフレッドに向かって身を乗り出した。
「それですわ、殿下!」
「は?」